シンザン(競走馬)
しんざん
『最強の戦士』
彼の前では、全ての馬が挑戦者だった。
まだか。まだか。彼を超えるヒーローは、まだか。
-JRAポスター ヒーロー列伝より—
【貴重映像・昭和レトロ】最強の戦士 シンザン 1965年有馬記念 - | JRA公式
概要
戦績・産駒・長寿記録と、戦後日本競馬界に長く影響を与え続けた功績の大きさから「神馬」とも評される伝説的名馬の1頭。
当時東高西低の競馬界で関西馬として並み居る関東馬を薙ぎ倒し、1964年(昭和39年)の皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制し初代三冠馬セントライトに続く2頭目、そして戦後初のクラシック三冠馬となった。
1965年(昭和40年)には天皇賞(秋)と有馬記念も制し、「五冠馬」とも称される。宝塚記念も勝っており結果としては六冠を達成しているが、当時は八大競走と同列には扱われなかったため六冠馬と言われる事はほぼない。
2022年4月時点で8頭いるクラシック三冠馬の内、他の7頭はいわゆる大手・名門牧場の出身だが、シンザンは松橋牧場という小さな個人経営の牧場出身。
手掛けたのは東の尾形・西の武文と評された関西の名伯楽・武田文吾調教師。
武田氏はこのシンザンにより日本競馬八大競争を完全制覇。未だに自身の手掛けた馬で八大競争を制覇した調教師は、先の「東の尾形」こと尾形藤吉氏と武田氏の2人しかいない。
1965年の有馬記念を最後に引退。
関係者やファンからは「まだやれる」との声も多く、実際シンザンもまだまだ衰え知らずの力を持っていたのだが、天皇賞は当時勝ち抜け制度だったので春天には出走できず、短距離路線はまだ軽視されている頃であり、また海外遠征は成功例が無い、という具合に出走できるレースが殆ど無いという状態だった。(特に海外遠征については武田調教師でも「まだ日本競馬には時期尚早」と考えており、実際にシンザンの前年に海外遠征した馬が故障引退していた。他にも武田調教師は「馬は衰えを露呈する前に引退させた方が良い」という考えを持っていたことも引退の決断に踏み切った大きな要因と言える。)
最終戦績19戦15勝2着4回・連対率100%。デビューから引退まで19連続連対という記録は中央競馬では未だ更新されていない大記録。(連続連対数ではビワハヤヒデの15連続、連対率100%に限ればダイワスカーレットの12連続が次点。)
引退後
1966年(昭和41年)シーズンから種牡馬となる。
当時は外国産種牡馬全盛期ながら関係者の苦心が実り、初年度から産駒が勝利するという好発進を見せ、2年目産駒からは重賞勝利馬も出る。なかなかクラシック勝利産駒は出なかったが、1981年にミナガワマンナが菊花賞を制覇、後に「シンザンの最高傑作」と評されたミホシンザンが皐月賞・菊花賞・天皇賞を取る等、ノーザンテーストに破られるまで産駒24年連続勝利の記録を保持するなど内国産馬として素晴らしい成績を残した。
1967年(昭和42年)に4歳(現3歳)馬限定の重賞レースとして「シンザン記念」が設立される。
1968年(昭和43年)、京都競馬場に銅像が建てられる。台座には「五冠馬」「神賛」と号されている。
1984年(昭和59年)に無敗のクラシック三冠馬・皇帝シンボリルドルフが生まれるまでの約20年間、その戦績・種牡馬成績とそれを支えた多くのスタッフ達を称え、日本競馬界全体の目標として「シンザンを超えろ」というスローガンが掲げられた。
1996年(平成8年)没。満年齢35歳(数え歳で36歳)は当時の日本競走馬の最長寿記録(サラブレッドとしての長寿記録はシャルロットが2014年、中央競馬重賞勝ち馬としてはマイネルダビテが2021年に記録を更新)。
晩年を過ごした谷川牧場に建てられた等身大のシンザン銅像には以下の言葉が刻まれている。
「皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念、日本の競馬史上にはじめて五冠の言葉を残したシンザンよ。シンザンよ、お前が日本のターフに残した蹄跡は余りにも大きく、おそらく消える事は無いだろう。競馬のつづく限り、日高にサラブレッド生産の有る限り、お前の額の星の様に光り輝くことであろう。」―武田文吾―
競走馬としての特徴
牡馬としては体が小さめで、あまり走らない馬だったために多くの関係者からは当初「平凡でぼさっとした馬」と評され殆ど期待されず、武田調教師も「現役時代にシンザンの血統の馬にたまたま乗っていたことがあったから、何となく懐かしさを覚えた。」という程度の思いでシンザンを迎え入れたくらい素質を見抜けなかった。(デビューから無敗で5連勝、しかも関東での重賞勝利を成し遂げたときにようやく武田氏もその強さに気付かされ、シンザンに自身の非を詫びたそうな。)
血統はかなりの良血統なのだが、無名牧場の産駒であり、生まれた当時は牧場主ですら「ロバが生まれたのかと思った。」と思わず写真を撮るほど小さかった。仔馬時代は動きも堅く、追い運動をしても最後尾を仕方なさそうにのろのろ付いていく、という感じであり、更に当時は馬房制限が無く、武田厩舎には選りすぐりの3歳馬が10頭以上も入ってくるという状況だったので期待されなかったのも無理はない。ただ体が非常に丈夫で手がかからず、また走るのは常に最後尾であったが決してバテることはなかったという。
気性は生来から非常に落ち着いていて、人がぶつかっても小石が当たった程度にしか反応せず、輸送中に誤って一日中ラジオをかけられっぱなしにされても気にせず寝ていた程。パドックでは「牛が出走してるのか?」と言われるくらい落ち着き払っていた。
後述する通り非常に賢く、とにかく無駄なことを一切しない(調教においては引退するまで未勝利馬にすら遅れを取る程力をセーブしていた模様)。落ち着いた気性とこの頭の良さによってレースでは掛かりを起こすことは全く無かったという。
- 抜群に上手いスタートから先団につける
- 好位置をキープしつつ終盤の勝負所で仕掛ける
- 後続と距離を保ちつつゴール
という競馬における「盤石の型」での勝利を得意としており、特にスタートの巧みさはファンの間でも三冠馬随一との意見もある。
シンザンについての小話
シンザンにはかの芦毛の怪物オグリキャップのように様々なエピソードがある。
関連書籍や映像作品もあるので興味があれば是非。
『本番』を知る利口な馬
上記の通りシンザンは調教では走らない馬だったらしい。初めは厩務員が同僚から揶揄われるくらいに走らなかったという。(名前から「新参」などと言われていた。)
レースでも全力を出すのは終盤の勝負所の僅かな時間で、ゴールが近付くと自らスピードを落とし、ゴール後はどの馬よりも早く止まってさっさと引き上げていったという。(そのためレース展開は結構僅差だったり物凄く差をつけたというものが少なく、当時のファンの中には「それほど圧倒的に強い馬だとは思わなかった」という人もいたとか。)
これについて調教師の武田文吾氏は
- 「シンザンは銭のかからない時は走らない。」
- 「ゴール板を知っている馬。騎手が追わずともどこがゴールか知っているから自分で必要なだけ走る。」
- 「利口な馬で、無駄走りをしない馬だった。」
と評した。主戦騎手を務めた栗田勝氏も
- 「こちらの考えていることが電気のように伝わる。こんなに乗りやすい馬はいない」
と語っている他、栗田騎手自身が「ハナ差勝ちでも勝ちは勝ち」という信念の持ち主だったこともあり、馬・騎手の両方があえて「レコード勝ちを狙わない走り」を取っていたことも要因の一つ。(事実栗田騎手は「レコードを取る気ならいくらでも取れる」とも語っている。)
調教では仕上がらないため武田氏はオープン戦を調教に使っており、2着となった4戦のうち3戦は全てオープン戦である。言ってしまえば手抜きさせているようなもので、競馬評論家の大川慶次郎氏は「レースを調教代わりに使うのはファンや評論家の立場からは腹が立つ。」と語っている。(大川氏はシンザンを徹底して本命に打たなかったことで知られており、後に「シンザンにはその体型に勝る大きなものが内在していた。間違っていたのは私がそれに気がつかなかったことの方だった。」と述懐している。)ちなみにもう1回の2着は菊花賞のトライアルである京都新聞杯で、この時のシンザンは夏負けを起こし体調不良だった。調教目的・体調不良でも2着に入るあたりが規格外なところである。
シンザン鉄
デビューから4戦目頃、シンザンの後足の脚力が強すぎるせいで前足とぶつかり、蹄が内出血を起こしていることがわかった。競走馬としては致命的ともいえるこの欠陥を克服するため、武田調教師は試行錯誤の末、前後の蹄を守る特注の蹄鉄・通称「シンザン鉄」を開発した。
この蹄鉄、なんと通常の蹄鉄の2倍以上の重量があったという(しかもこの頃の調教用蹄鉄は鉄製で、現代のアルミ合金製よりも重い)。もちろん普段履き用であり、レース時は通常のアルミ合金製のレース用蹄鉄を使用していたが、この重さのせいでシンザンは調教嫌いになったとか、逆に足が鍛えられたとか言われたようである。(元から調教では走らなかったので実際どうだったかは不明だが、よく故障しなかったものである。よほど足腰が強かったのだろう。)
シンザン鉄は通常の蹄鉄に比べて耐久力も低く頻繁な付け替えが必要で装着にも時間がかかったため、シンザンは最後まで蹄鉄の付け替えを嫌がったという。
このシンザン鉄は今も京都競馬場に現物があるので、興味があったら一度見に行ってみるのもオススメ。
二本足の馬
シンザンの腰の強さを証明するエピソード。
ある日、いつものように乗り運動をさせるため、武田調教師が息子の博氏にシンザンを厩舎の周りで歩かせるように指示。博氏は早速シンザンに跨り歩き出そうとしたところ、シンザンがいきなり後ろ足二本で立ち上がった。見ていた関係者は全員唖然。博氏は事故を起こさないようにとにかくシンザンに必死にしがみつくことしかできず、そのままシンザンは博氏がしがみついたまま器用に二本足で50mも歩き、その後平然と四本足に戻して歩いて行った。さすがの武田調教師も「歩けと言ったが二本足で歩けとは言ってない」と半ば呆れていたという。
二本足で立つこと自体は腰の強い馬が稀に見せることだが、大抵は自重に耐え切れずすぐにやめてしまうものである。人を乗せたまま50mも歩いたのは恐らくシンザンだけだろう。この二本足で立つ行為はシンザンの得意技だったらしく種牡馬時代にもよく見せていたようで、当時の競馬雑誌にも掲載されている。
シンザンが消えた
別名「シンザンストレート」。(記事冒頭の動画)
五冠のかかった有馬記念の最終盤、レース先頭を行く闘将・加賀武見騎手とその馬ミハルカスが、シンザンを荒れた内馬場へ突っ込ませようと大外を通るルートを取った際、シンザンは更にその外を通るルートを走って交わしゴールした。この時シンザンが大外に寄りすぎて外埒(コースの外側の柵)に集まっていた観衆に隠れてしまい、カメラからシンザンが消えた。(実況も一瞬絶句している。)
このレース、シンザン側は
- 武田調教師と栗田騎手が有馬記念のローテを巡って対立し最終的に栗田騎手が降ろされ(正確には病院に入院して降りざるを得ず)シンザンに初乗りの松本善登騎手が騎乗
- 加えてシンザンは中山競馬場が初だったために前レースのOPに出走し連闘
- 更に前日の雨で内馬場が不良でシンザンは不良馬場が不得手
- おまけに上述の加賀武見騎手とミハルカスはシンザンに2度敗れていてリベンジに燃えている
という不安要素満載の状態だった。それらの不安要素、加賀騎手とミハルカスの執念の奇策すらも打ち破ったこのレースは「シンザンが消えたレース」として伝説となっている。
競走馬擬人化の題材としてのシンザン
内国産馬と言う事を反映してか悪く言えばごっついオッサン、よく言えば侍風にされるようである。また、『馬なり1ハロン劇場』では和服姿のご老公として描かれ、呂律が回らず、よく馬の名前を間違えること多々である。(例:「シンボリルロルフ」、「ナリタブライヤン」、「デープインパクト」、「オルヘーブル」)
なお、2022年4月現在『ウマ娘プリティーダービー』においてはウマ娘化はされておらず、今後実装されるかどうかも不明。同月時点での実装済ウマ娘でモチーフ元が最年長であるマルゼンスキーですら干支二回り後、八大競走・GI級の勝ち鞍がある最年長にして次代の三冠馬であるミスターシービーは19歳下と年齢が離れすぎている(先輩である1951年ダービー馬との関連が噂されるキャラはいるが)ことやら、同ゲーム中に既に「シンザン記念」が出走可能なレースとして実装されていることとの整合性やらとハードルは決して低くないが…。
なお、オリジナルウマ娘としてはいくつか投稿がされている。
関連項目
64世代:「シンザン世代」と呼ばれる1964年クラシック世代。
シンザン記念:1967年(昭和42年)創設のJRAの重賞競走。
ミハルカス:現役時代のライバル牡馬。目黒記念・天皇賞(秋)・上記の有馬記念とシンザンと3度対決するも全敗に終わる。ちなみにシンザンとは父親が同じ。
ウメノチカラ:現役時代のライバル牡馬。シンザンとは対照的に当初から高評価を受けており、ダービー・菊花賞ではシンザンと競り合い2着、1966年天皇賞(春)でも後輩馬を置き去りにし、ハクズイコウと競り合うなど実力は本物。ミハルカスと並んでシンザンの代表的なライバルと呼ばれている。
カネケヤキ:現役時代のライバルである二冠牝馬であり、引退後は長寿記録でも競い合った。菊花賞では二冠牡馬と二冠牝馬が互いの三冠をかけて激突するという史上唯一の対決となった。
バリモスニセイ:現役時代のライバル牡馬。対戦成績は1勝5敗で、上記の京都新聞杯にて唯一シンザンにオープン戦以外で黒星をつけた。
ハクズイコウ:現役時代のライバル牡馬。シンザンとは天皇賞(秋)、有馬記念で対決するもそれぞれ2着、4着と敗退。1966年天皇賞(春)ではウメノチカラとゴール際まで競り合い勝利し、1982年にモンテプリンスが現れるまで破られなかったコースレコードを記録。カブトシロー、ダイコーター、チトセオー、エイトクラウンと言った後輩強豪馬にシンザン世代の強さを見せつけた。