プロフィール
生没年:弘治3(1557)年~天正3(1582)年
通称は五郎。受領名は薩摩守(自称)。
同母弟妹に葛山信貞、菊姫(上杉景勝の正室)や松姫(織田信忠の婚約者)らがいる。
諱は盛信のち信盛。その他、晴清を名乗っていたという説もある。
概要
永禄4(1561)年に信濃国安曇郡を領有する仁科氏の名跡を継ぎ、木崎湖畔に位置する森城に入城。
以来(現代のJR大糸線ルートに相当する)対上杉防衛線の一角として根知城の村上義清・山浦国清父子らと対峙していた。
それが一変するのは、天正3(1575)年の長篠の戦いで武田勝頼軍が織田・徳川連合軍に敗北してからである。同年に、勝頼は信長に対抗するために上杉謙信と和睦(甲越和与)した。さらに、謙信急死後に勃発した御館の乱の結果もあり、天正7(1579)年に勝頼は、上杉景勝と同盟(甲越同盟)を締結。この同盟の証として、前述した菊姫(盛信の同母妹)は景勝と結婚している。
これにより、武田勝頼・上杉景勝対織田信長・徳川家康・北条氏政という構図が出来上がった。このため武田家は南と西に注力する必要が生じたのである。さらに同盟者の上杉家もまた御館の乱で国力が大きく低下した上に、織田や北条の圧力、さらに恩賞問題の拗れで反乱を起こした新発田重家やそれを支援する蘆名盛隆・伊達輝宗への対処と問題が山積していた。
天正9(1581)年、盛信は兄・勝頼から高遠城主に任命され森城から移った。高遠城はかつて勝頼が城主を務めた伊那地方の重要拠点であり、ここを敵に制圧されれば中信地方のみならず、諏訪地方から甲斐への道も開けてしまうことから、盛信がそれだけ勝頼に信頼されていたことがうかがえる。
ちなみにこの時期から諱を信盛としている文書が見受けられるため盛信から改名していた模様である。
高遠城の戦い
天正10(1582)年2月、木曽義昌の謀反を皮切りに織田信長・信忠が木曽・伊那方面から、徳川家康が駿河方面から武田領への侵攻を開始した。2月末までに南信濃の諸将は降伏・逃亡によって織田軍の軍門に下り、残るは高遠城のみとなっていた。
3月1日に信忠が率いる織田軍3万が高遠城を包囲し、開城を促す使者を送り込むも信盛は敢然と拒絶(使者として送られた僧侶を耳を削いで返したという逸話が残っている)。城内にいた同母妹・松姫を自身の娘・小督姫と共に脱出させた。翌2日に織田軍の攻撃が開始された。
高遠城に籠る武田軍は老若男女合わせて3千、10倍の兵数差をものともせずよく戦ったが、屋根上から攻め入った森長可の攻撃をきっかけに形勢が一気に悪くなりその日のうちに落城、城兵はほぼ全滅し信盛も自害して果てた。享年26歳。
首は織田軍によって獄門にかけられたが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く葬られた。
盛信の死から10日後の3月11日に、勝頼と嫡男の武田信勝も自害し、武田家は滅んだ。武田家最期の1ヵ月半でまともな戦いが行われたのは結局高遠城と依田信蕃が籠城した田中城の2つのみであり、信盛(盛信)は武田家最後の意地を見せることになったのであった。
子孫は江戸時代になり家康に召し出され旗本になったとされているが、はっきりしたことはわかっていない。
ちなみに長野県歌「信濃の国」では「仁科の五郎信盛」と歌われ、木曾義仲・太宰春台※・佐久間象山らと並び長野県では偉人扱いされている。
※江戸時代中期の儒学者・経世家
高遠城の戦いで交戦した織田信忠との関係
前述した信長の嫡男・織田信忠は、本来盛信の義兄弟となるはずだった人物だった(松姫が信忠と婚約していたが、武田家と織田家の敵対に伴い婚約は破断となっていた)。
ちなみに彼らは同じ年に生まれている。
そして前述した通り、盛信は信忠勢に攻められて自害したのだが、それから約3ヶ月後に信忠は横死している。
要するに、盛信と信忠は生没年が同じなのだ。