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ハプスブルク

はぷすぶるく

スイス発祥のヨーロッパの王家。16世紀にはその広大な領土から「日の沈むことのない帝国」と称された。

概要

ハプスブルクはヨーロッパ王侯貴族の家名。その支配した領域の広さと神聖ローマ皇帝を世襲したことから、欧州一の名門と称される。

ドイツ語ハプスブルク、スペイン語ではアブスブルゴ、ハンガリー語ではハプスブルグ。

戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の家訓の通り、主に婚姻政策によって勢力を拡大していった。

もともとは現在のスイス領内の小貴族であったが、13世紀にルドルフ1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位してから力を強めてきた。婚姻政策で所領を増やし、16世紀前半にはスペイン国王オーストリア大公などとしてヨーロッパ全域に支配地を拡大。さらにスペインは当時南アメリカなどに植民地を広げていたため、「日の沈むことのない帝国」と称された。

1556年にスペイン王家と神聖ローマ皇帝・オーストリア大公家が分離。1700年にスペインのハプスブルク(アプスブルゴ)家は断絶した。

オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ帝国滅亡後もオーストリア帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)の皇帝として存続したが1918年に最後の皇帝が退位し、王家としてはその歴史を終えた。

…が、現当主はオーストリアから選出されている欧州議会(EUヨーロッパ連合の議会)の議員になっていたりして(但し寄付金スキャンダルでたった3年で辞職した)、今なおヨーロッパにおいては一定の影響力があったりする。

また、ベルギー王族のうち、国王フィリップとその子供たちに次ぐ王位継承権者として、フィリップの妹アストリッド王女と、オーストリア=エステ大公ローレンツの間の子供たちがいるため、将来ベルギー王室の王族としてハプスブルクが復権する可能性も残されている。

2011年7月4日、最後のオーストリア皇帝カール1世の長男にして、最後のオーストリア皇太子オットー・フォン・ハプスブルクが永眠。享年98。彼の葬儀には各国の君主が参列した。

ちなみに推定相続人で現家長の長男フェルディナント・ズヴォニミルはオーストリアのレーシングドライバーとして活躍している。

2017年のマカオグランプリの決勝戦でクラッシュしながらも4位でゴールした、といえばピンとくるレースファンも多いかもしれない。

2021年のル・マン耐久レースでは見事優勝した。

なお、1736年マリア・テレジアロレーヌ(ロートリンゲン)家のロレーヌ(ロートリンゲン)公フランツ(後の神聖ローマ皇帝フランツ一世)と結婚した為、オーストリア系のハプスブルク家(現在も続くハプスブルク家はこちら)の正式名称はハプスブルク=ロートリンゲン家である。現ハプスブルク家家長カールのフルネームもカール・ハプスブルク=ロートリンゲン(Karl Habsburg-Lothringen)。(ちなみにドイツ貴族に御馴染みのフォンが無いのは、オーストリアではフォンやツー(zu)などの貴族の称号を名乗るのを認めていない為。)

顎にまつわる話

ハプスブルク家はブルボン家同様、領土の流出を嫌って近親婚が繰り返された歴史がある。このため、「ハプスブルクの下唇」と称される長い、突き出た下顎、大きな下唇などといった特徴を持つ人物が多く生まれた。重症化すると常に口が開きっぱなしで食事は丸呑み(カール5世)、知的障害で不能(カルロス2世)といった障害を持つ人物も生まれ、後者はこのためにハプスブルクがスペイン王位を失うはめになったきっかけをつくってしまった。

マリー・アントワネットも描かれた時期と場所の違う肖像画を見る限りでは多少なりともその特徴があったようである。

幸いなことに、近親婚の弊害が認知された現在のハプスブルク家の主だったメンバーはこの特徴や障害を持っておらず、むしろ美貌を活かしてモデルとして活動する人物もいる(現家長の長女エレオノーレなど)。

なお、一族にこの特徴を持ち込んだとしばしば言われるポーランド公女ツィンバルカ・マゾヴィエツカは片手の指に挟んだクルミを割り、素手で釘を壁に打ち付けたほどの怪力の持ち主であったらしい。

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