プロフィール
生没年:1331(元徳3/元弘元)年~1358(正平13/延文3)年
幼名:徳寿丸
諱:義興
生涯
北畠顕家の鎌倉攻めに参陣
南朝方の有力武将だった新田義貞の次男。母が側室だったことから重用されていなかった。
ちなみに長兄の義顕の通称は義貞と同じ小太郎で、異母弟の義宗は太郎であるが義興の通称は不明である。
楠木正成が討死した湊川の戦い以後、北陸で戦う義貞や義顕と離れて新田氏の本拠地である上野国新田荘に留まっていたが、1337年に奥州より北畠顕家が西上すると、これに呼応して年少の身ながら挙兵し顕家の軍勢に加わったため、顕家に対抗意識を持っていた義貞からはさらなる不興を買ったとされる。
顕家たちと共に足利直義らの軍を打ち破り鎌倉を占領し、さらに西上し足利方を次々と破った。
元服、長兄と父の死
その後、吉野で後醍醐天皇に謁見して、後醍醐帝は「尤も義貞が家を興(おこ)すべき人なり」として義興の名を与え、帝の御前で元服。顕家が和泉国石津の戦いにて戦死した後はその弟・北畠顕信と共に京都を攻めるが、高師直に敗れ撤退した。それと前後して、義顕が尊良親王と共に越前国の金ヶ崎城で自害し父に先立ち、それから間もなく義貞も藤島の戦いで戦死する。
関東平定を目指して
1338年9月、関東制圧のために義良親王(のちの後村上天皇)・宗良親王や北畠親房(顕家・顕信の父)らが下向することになり、義興は北条時行と共に後醍醐天皇から関東八ヶ国の平定を命じられたという。一行は伊勢から海路東国を目指すが、暴風雨に遭って船団は散り散りになった。この時、義興は北畠父子に同道していたらしく、武蔵国に流れ着いた。その後は親房らと疎遠になり独自行動を取るようになる。1341年の常陸合戦などで活動した記録もあるが、新田荘に戻り義貞と義顕の死で新田氏当主を継いでいた異母弟の義宗の元にいたと思われる。
武蔵野合戦
1351年末、義興と従兄弟の脇屋義治は義宗に対し挙兵を促し義宗も兄たちの説得に応じた。翌1352年北朝方が観応の擾乱などで混乱し足利義詮が楠木正儀らに敗北し京を失陥したことを機に、義興らは宗良親王を奉じ鎌倉の奪還を目指して上野で挙兵し北条時行も加勢し鎌倉を一時占拠した。義興らはその後も足利方を追って武蔵野の各地で戦ったが足利方の反撃にあって鎌倉を追われた。なお、この戦いで時行は捕縛され処刑された。
矢口渡に散る
足利尊氏が没した半年後の1358年、時期到来とばかりに挙兵、鎌倉を目指した。これに対し尊氏の四男で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山道誓は、部下の竹沢右京亮と江戸長門に迎撃を命じた。初め竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せなかった。一方の江戸は甥とともに三百余騎を率いて、多摩川の矢口の渡しを用いると踏んだ江戸は渡し守に命じて義興が渡るであろう船に穴を開ける罠を仕掛けた。そして同年10月10日、義興と主従の家臣13人は、矢口の渡しで渡船中に襲撃され、殺害された。享年28だった。
さらにこの10年後の1368年、武蔵において勃発した武蔵平一揆の乱に乗じて義宗は義治と共に越後で挙兵し下野国の宇都宮氏綱も呼応したが、上野国沼田荘で鎌倉勢に加勢した小山義政と戦い義宗は討死し義治は出羽へ逃がれたとされる。
新田大明神として
義興一行を謀殺した江戸や竹沢らは基氏のもとへ馳せ参じ、褒賞を受けたが、その後まもなく江戸・竹沢両名が義興の怨霊により急死したとされる。また道誓はのち失脚し1362年に伊豆で基氏に反乱を起こすが敗れて処刑され、基氏も5年後の1367年に28歳の若さで急逝している。
『太平記』によれば現地の住民が非業の最期を遂げた義興の霊を慰めるために義興の墓の前に神社を建てて神として祭ったとされ、新田大明神として尊崇された。これが現在東京都大田区にある新田神社である。同神社境内にある義興の墓陵は今日に至るまで禁足地とされ、立ち入りは禁じられているほか、新田神社に参拝する前に、同じく非業の死を遂げた井伊弾正ら家臣を祀る十寄神社が近くにあり、そこに詣でてから新田神社に詣でなければならないといわれている。
なお、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目である『神霊矢口渡』は、義興の最期と死後の話をもとにして江戸時代後期に平賀源内らが脚本を書いたものである。東急多摩川線の武蔵新田駅の「新田」は、義興と新田神社に由来する。
また『太平記』では沈み行く舟から義興を差し上げている井伊弾正は戦国時代に井伊直虎や直政らを輩出した遠江国の井伊谷井伊氏の支流である渋川井伊氏の出である。
フィクションにおける新田義興
漫画
史実では義貞の次男で庶子だが、本作では三男(誤植?)で新田家の嫡男となっている。10歳に満たぬ年齢で出陣した。北畠顕家により北条時行とその郎党である逃若党に引き合わされた。
このとき、義興は10歳に満たぬ子どもということもあって、ためらうことなく亜也子にパフパフし、相手が子どもということもあって亜也子もとまどいつつもこれを受け入れていた。
詳細は新田徳寿丸(逃げ上手の若君)を参照。