概要
ことは2024年07月30日(現地時間)、パリオリンピック射撃競技に始まった。
この日行われていたのは「混合団体・10メートルエアピストル」、すなわち競技用の拳銃で10m先のターゲットを狙い撃ち、男女のペアで得点を合計して競う種目である。
射撃競技は、手元の数ミリのブレが大きな射撃結果のズレに繋がり勝負を分ける、極限の精密性が求められる世界である。
ゆえに、選手には音を遮断し集中を高めるためのイヤーマフ、ターゲットを見えやすくし照準を補助する専用のグラス、会場の照明の影響を減らすための帽子やサンバイザーなどの装備品が認められている。各選手は装備に工夫を凝らし、少しでも射撃精度を高めようとするのがごく普通のことである。
しかし、決勝戦でセルビア代表チームに敗れるも見事に銀メダルを獲得したトルコ代表チームの男性選手、ユスフ・ディケチ(Yusuf Dikeç、姓のカタカナ表記は「ディケチュ」「ディケチェ」「ディケッチ」など報道により揺れがある。そのため、本項目でも本名ではなく愛称を記事名にしている)の姿はそれらと一線を画していた。
ディケチは上半身はトルコ代表のTシャツ1枚というラフな服装に、頭部の装備品も眼鏡に耳栓(飛行機に乗ると無料でもらえる耳栓という説も)のみという軽装であった。
髪には白髪が混じり、ちょっとお腹の出た、どこにでもいそうなごく普通のおじさん。だが、ターゲットを見つめる眼光は鋭く、直立不動の射撃姿勢は美しく(左手をズボンのポケットに突っ込んでいるが、これは空いた手を固定して身体のブレを防ぐ、射撃の一般的な手法である)、何よりオリンピックの決勝戦までを戦い抜く実力者である。
決勝戦の写真がX(旧Twitter)などのSNS上に出回るや、一体このおじさんは何者か、と大いにバズることになった。
「無課金おじさん」
このディケチ選手に、日本で付けられた愛称のひとつが「無課金おじさん」である。
これは、FPS・TPSなどの銃器を扱うシューティングゲームやバトルロイヤルゲームに由来する。これらのゲームには「基本プレイ無料・アイテム課金制」、つまりゲームを始めるのにお金はかからないが、ゲーム中でパワーアップ要素がガチャなどの形式で有料販売されているものが多い。
強力な銃器や、あるいは照準精度を高めるスコープ、視界を良くするゴーグル、被弾時の耐久性を高める防具など、有力なアイテムほど課金でしか手に入らないようになっているものであり、殆どの場合無課金プレイヤーは課金プレイヤー(投入金額が増大すると課金兵だの、さらに重課金兵・廃課金兵だの呼ばれる)にかなわない。
(課金装備が強力なのは当然のことではある。金を払ってくれるユーザーがいなければ、商業作品として経営が成り立たないのだから。とはいえ、課金制度黎明期、対人ゲームでそれをやりすぎてかえって寿命を縮めた事や、最近は競技性平等性を重視するようになっていることから、見た目や演出が派手になるだけであることが多く、むしろ有利になる要素があると「Pay To WIN(勝利を買う)」と批判されるようになり、最近こう言われるのは対NPCゲームにおけるタイムアタック、スコアアタックランキング戦においてのみである。)
そして、装備品をほとんど身に付けないまま銀メダル獲得まで戦い抜いたディケチ選手の姿を、無課金で手に入る限られた装備品の中で、己のゲームスキルのみを頼りに課金プレイヤー相手に大善戦を演じるような手練の無課金プレイヤーになぞらえたのが「無課金おじさん」の愛称というわけである。
(なお、「持ってさえいれば誰でも使えるものを一つも使っていない」だけなので課金というより「CODやBFで、スコープやバレル交換、マズル、ストック等のアタッチメントをガチガチに調整している連中と裸の武器で互角」或いは「Apexなどで紫武器、金武器で身を固めた連中に混ざってストックも拡張マガジンも何も付けず互角にやり合っている」方が実態に近い)
その他、「射撃場にふらりと現れたおじさん(実はその道のプロ)」「トルコがガチのヒットマンを送り込んできたぞ」だの(参考:「トルコはオリンピックに殺し屋を送り込んだのか?」(英文の翻訳))様々に評された。
ゲームやアニメからの連想では、銃の名手であるおじさんということで「リアルスネーク」、ラフな服装から精密な拳銃の腕前を披露することから「冴羽獠」など。特に冴羽獠絡みでは、XやYouTubeの投稿で競技の動画にアニメ版『CITY HUNTER』主題歌であるTM NETWORKの「Get Wild」をつけた動画が話題となった。
Get_Wildの曲をつけた競技の動画
参考:トルコの無課金おじさん。GetWildと共にどうぞ!😆
Youtube版
また、カジュアルな格好に加えて左手を無造作にポケットに突っ込んでいるところや、全くブレない体幹で淡々と撃つ姿勢に痺れた人もいて、その中には彼のイラストをSNS等で投稿するユーザーも。
ユスフ・ディケチの実像
無課金おじさんことユスフ・ディケチ(Yusuf Dikeç、あるいは「ディケチュ」「ディケチェ」「ディケッチ」など)は、1973年にトルコ中南部のギョクスンに生まれ、パリオリンピックの時は51歳である。
その経歴は、トルコの憲兵組織「ジャンダルマ」の退役下士官。すなわち、職業軍人として銃を扱ってきた本物のガチおじさんだったのである。
実際有識者の中には「射撃系のスポーツをやるものは集中力を高めて照準を精密にするためにゴーグルなどで片目だけ見やすくしたり片目を閉じるなりして視界を絞る」「でもこの人はそう言ったデバイス無しで両目を開けて片目を利目にしており、こういった射撃姿勢は敵を警戒するためのテクニックなので、多分ガチで本職」と考察していた者もおり、実際そうであった。(漫画などの創作でスナイパーが片眼を閉じている描写もこれを踏まえると厳密には競技用スナイパーの様子であり、実際のスナイパーはスポッターという観測手を付けたり片目だけを利目にするテクニックを使って視界を確保しつつ照準している)
誰が呼んだか「無課金というよりはプレイヤーレベルを上げすぎた人」。
職務のかたわら射撃競技の選手として活動し、世界選手権やヨーロッパ選手権の優勝を重ね、オリンピックではメダル獲得は2024年パリの銀メダルが初ながら、北京オリンピックから5大会連続出場という、実績ある経歴も世界中に知られた。
ディケチ選手は銀メダル獲得後に自身のInstagramを更新し、メダル獲得の喜びと応援への感謝を綴ったが、そこには子猫と戯れる姿が。「無課金おじさんは猫のほうに課金する猫おじさんだったか」と、眼光鋭い競技時の姿と愛猫に優しい眼差し向ける姿のギャップが再び評判を呼んだのであった。
(リンク先:愛猫との2ショットが掲載されたディケチ選手のInstagram)
フランスからの帰国後、ディケチは世界的な評判について「世界はトルコを話題にしているのです。私達は象徴にすぎません」と謙虚に語った。
またその射撃スタイルについての質問には
- 「(シンプルな装備は)私個人の選択です。競技団体から否定的な意見もありません」
- 「片目で撃つ人が多いですが、研究の末に私自身は両目の方が精密に撃てると確信しました」
- 「ポケットに手を入れるのはカッコ良さとは関係ありません。この方が撃つ瞬間によりリラックスできるのです」
と説明している。
ちなみにオリンピックで使われるエアピストルは規定をクリアした選手の私物なのだが、今回のオリンピックで彼が使用したのはステアー社のEVO10Eというモデルのエアピストルである。
余談
c以外にも、今大会でSNS上の話題となった選手として、女子10メートルエアピストル個人で銀メダルを獲得した韓国代表のキム・イェジ選手がいる。
彼とは対照的にイェジ選手は独特な形状の眼鏡を身につけて出場しているが、クールな表情で的を狙う様子に「主役のオーラ」「ドラマに出演していそう」「007の悪役」と、ディケチ選手とはまた違った魅力を感じている人が多く見られる。
なお、オリンピック側もこの話題を認知しているらしく、X(旧Twitter)では公式アカウントで二人を並べて紹介していた。
また、他にも上半身だけを仰け反らせる独特の体勢で射撃する選手(背骨をロックし、胸板をそのまま台座にする事でブレを減らすテク)や子供からもらったクマさんキーホルダーを付けたまま戦うママさんシューターなど個性溢れる選手が登場し、彼らも話題になっていた。
実は2016年のリオデジャネイロオリンピックにて、ベトナム代表のホアン・スアン・ビン選手(現在はベトナム人民軍の大佐)も無課金スタイルでエアピストルに出場しておりベトナム史上初の金メダル(同時に銀メダルも獲得)を獲得というディケチ選手以上の成績を残しているが、当時のメディアではあまり話題にはならなかった。
恐らく話題にならなかったのは、ホアン選手がジャージと競技用の眼鏡をかけていたため。こちらは近所の安い射撃屋からやって来たという服装であり、Tシャツとズボンのディケチ選手ほどラフではない。
例えるなら、ディケチ選手は初期アバターのごとき無課金スタイルであり、ホアン選手は無料で引けるソシャゲガチャタイプの無課金スタイルである。
ただし、かつて所属していた憲兵組織の「ジャンダルマ」はトルコ国内で少数民族への迫害に加担した組織でもあり「そもそも、ネタとして消費していい人物なのか?」という指摘も有る。
関連項目
- マック堺:日本で有名な射撃の選手。マガジンは自重で落下しますなどネットミームも生み出している。
- saltbae(ヌスレット・ギョクチェ):同じくネットミームとなったトルコのおじさん。