生涯
名は義邦、通称は麟太郎。
安房守だったので安房と称し、のちに安芳と改名。
文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸で幕臣の勝家の長男に生まれる。勝家は旗本であり御家人ではないのだが、御家人から昇格した家で、石高が旗本としては異例に低く勘違いされやすい。父方の男谷家は幕臣としては新参の家であるが、母方の勝家は江戸幕府ができるより前からの徳川家の家臣である。
ちなみに、父親で勝家の婿養子の勝小吉は不良旗本として有名であり、関所破りや道場破りの常習犯で江戸のみならず関東各地で悪名を馳せた。
就職を嫌い、まだ3歳の息子(後の勝海舟)に家督を譲ろうとしたなど、逸話の多い人物である。息子同様に自伝も残している。
幼少時に徳川家斉の孫の一橋慶昌の遊び相手に取り立てられたが、慶昌は早死にしてしまい、側近として出世する可能性は消えてしまう。しかし男谷精一郎などから剣術と学問を学び、そこで佐久間象山と交流するようになる(海舟の妹は象山に嫁いだが、海舟も象山も自信家同士のせいか、回顧録で海舟は象山を良く言っていない)。
黒船の来航後、老中阿部正弘や海防掛大久保忠寛(一翁)の知遇を得て長崎海軍伝習所に入る。
万延元年(1860年)に幕府遣米使節団の一員(当時は幕臣だった福沢諭吉も参加)として咸臨丸を指揮して渡米。行きは福沢達と揃ってお察し下さい状態だったらしいが、帰りは無事に航海している。
帰国後、神戸に海軍操練所を設立して軍艦奉行となり、この時期に坂本龍馬や西郷隆盛らと知り合っている。
その後、保守派の多い幕府首脳部に睨まれて一時職を退いていたが、第二次長州戦争の停戦交渉のために徳川慶喜から引っ張り出されるが、慶喜自身により頭ごなしに孝明天皇の勅命を引き出され、怒った海舟は江戸へ引き上げた(ちなみに、徳川慶勝(尾張徳川家)と西郷隆盛も、第一次戦争の後で穏便に処置したのに慶喜に再戦され、心証を害している)。
しかし、戊辰戦争が始まり、大坂城の慶喜軍が崩壊し、官軍(薩長主体の明治政府軍)が東征を開始すると、誰も対応できない徳川家は海舟を呼び戻す。徳川家の陸軍総裁となった海舟は、徹底抗戦を主張する小栗上野介の意見を「関東以北の残存勢力では新政府側に勝てる望みがない」「フランスの支援に頼ると内戦に外国を引き込んでしまう」と握り潰し、旧幕府側を代表して旧知の西郷隆盛と交渉し、江戸明け渡しの任を全うした(ついでに、邪魔な近藤勇などを、大久保一翁らと共同で適当な理由を出して、江戸から追い出している)。とはいえ、榎本武揚や大鳥圭介らに精鋭部隊を率いさせたまま「脱走」させ、彰義隊に江戸市中の警備を任せさせるなど、徳川家の政治力を保つために動くのは怠りなかったが、主に彰義隊の軽挙妄動のせいで、京都の新政府から新たに来た大村益次郎に彰義隊を壊滅させられてしまい、実質的にも江戸の支配権を奪われた。
明治維新後は、政府で参議・海軍卿・枢密顧問官などを歴任、徳川将軍家の家臣の代表格として伯爵に叙せられた。また、慶喜の名誉回復と旧幕臣の再就職の世話に尽力している。
政治的主張で対立を繰り返し、第二次長州戦争では顔に泥を塗るような真似までされたうえに、海舟が先代の徳川家茂に心酔していた事もあり、慶喜とは関係が非常に悪かったのだが、それでも海舟は慶喜の助命と社会復帰に尽力し、将軍家とは別の家として公爵位を得させる事ができた。
福沢諭吉は、自然科学に疎く大言壮語を繰り返す海舟を嫌っており、自伝や「痩我慢の説」で当てつけがましい事を書いているが、海舟としては気にしていなかったらしい。
『海軍歴史』『陸軍歴史』『開国起原』『氷川清話』などがある。