ククリット・プラモート
くくりっとぷらもーと
泰:หม่อมราชวงศ์คึกฤทธิ์ ปราโมช
英:Kukrit Pramoj
フルネームは「モムラーチャウォン・ククリット・プラモート」。
タイ王国の政治家であり、タイ王国政府の第18代首相。1975年から1976年にかけて首相を務めている。
政治はもちろんのこと作家・芸術家としても有名で、文学や演劇などで多くの業績を残していて、タイ王室の血筋でもあり、タイ国民からは品格ある人物として敬われている。
1911年4月20日において、タイ王国シンブリー県インブリー郡タンボン・バーンナー付近におけるチャオプラヤー川の船上で、ラーマ2世の孫にあたる警察局長官のカムロップ親王と、貴族ブンナーク家出身のモム・デンの間に生まれた。
「ククリット」の名は「元気で力あるもの」を意味し、大きな声で泣くとても元気な赤ん坊であったことから、ラーマ5世の正妻シーパッチャリン王妃によって名づけられたという。
学生時代は後宮(王族の住む場所)にあるワッタナーウィタヤーライ校に修学した後に進学校のスワングラープウィタヤーライ校に進み、その後はイギリスのトレント・カレッジに留学し、後にオックスフォード大学のクィーンズ・カレッジにも入学して哲学・政治・経済を学士号を取得し、優位学位であったことから三年後に修士号を授与されている。
政治家としては、後にタイ王国政府の二大政党の内の一つとなるタイ最古の政党である進歩党(現:民主党)を設立した業績があげられる。更に後には民主党から分裂する形で新政党の社会行動党を立ち上げて党首となっており、首相を務めたのはこの頃である。
現在もなお発行されているタイで最も古い歴史を持つタイ語の日刊新聞『サヤーム・ラット(サイヤム・ラットとも)』の創刊者でもある。
文学や演劇などで多くの業績を残しており、タイ王国において名著として名高く、多くの賞を受賞した小説である『王朝四代記』などを手掛け、首相となる前は俳優として多くの映画作品にも出演したことがある。
文化省文化振興局が著名な芸術家に認定している『国家芸術家』にも指定されている。
1995年10月9日死去。
元タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将が、タイ王国に国賓待遇で招待された1955年6月において、プラモート氏は彼に第二次世界大戦時に日本が行った東南アジア諸国の欧米による植民地支配からの解放や独立支援などの功績を称え、次のように述べたと伝えられている。
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日(※)は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」
※大東亜戦争の開戦日(昭和16年12月8日)
これには、上述したサヤーム・ラットの記事として載せられたとも言われるが、これらに対し出典が不明瞭だとして、後世の創作ではないかという批判もある。