1、ジョセフ・パトリック・ケネディ・シニア
2、ジョセフ・パトリック・ケネディ・ジュニア
1の概要
1888年、マサチューセッツ州ボストンで連邦下院議員を務める父パトリックと母メアリーの長男として生まれる。
長じてからは株式や不動産投資で財を成し、映画産業の発展に寄与した。しかしそれで得た金はインサイダー取引によるものともされ後ろ暗いものとも噂された。
世界恐慌でアメリカ経済が傾いた1930年代、恐慌直前に手を引いていたケネディは次の目標を政界進出に定めていた。1932年の大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトに資金提供したことで知己を得、証券取引委員会の初代委員長の職を得た(相場師として悪名高いケネディの就任に対する批判に、ルーズベルトは「泥棒を捕まえるのに泥棒が必要だ」とうそぶいたという)。
1938年には在英大使に転じ、ネヴィル・チェンバレン政権の対独融和政策を支持し(ケネディ自身が反ユダヤ主義者で親ナチとみなされた)、アメリカのヨーロッパ介入にも反対の姿勢を取った。しかし1940年11月に「イギリスを盾にしてアメリカが戦争準備するための時間を稼ぐ」旨の失言を行ったことで、在英大使を解任され政治生命を絶たれることになった。
その後は息子たちが自身の夢を果たしてくれることを望み、1961年に次男のジョンが大統領となったが、2年後に暗殺されてしまう。その後も三男のロバート、四男のエドワードに望みを託したが、ロバートは68年に暗殺され、エドワードも69年7月に起こした不倫・飲酒による交通事故・死体遺棄事件(チャパキディック事件)によって大統領選挙への出馬を絶たれることになった。
同年11月18日、81歳の生涯を閉じた。
余談
第3子で長女であるローズマリーは知的障害を負っていたため、1941年にジョセフの指示でロボトミー手術を施された(当時は障害治癒の最善策と考えられた)。その結果廃人と化してしまい障害者施設に隔離されることとなったうえ、存在自体が家中ではタブー扱いとされた。
2の概要
1915年、父ジョセフと母ローズの間に長男として生まれる。
1941年、ハーバード大学ロースクール在学中に海軍パイロットに志願し翌42年少尉に任官。
その後は対潜哨戒に従事していたが、1944年ドイツ軍の巡航ミサイル「V1」基地攻撃計画「アフロディーテ作戦」に参加した。この作戦ではPB4Y爆撃機の操縦を担当したが、8月12日の作戦時に事故で機体が爆発し戦死した。享年29歳、最終階級は大尉。