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概要編集

イギリス王立空軍(RAF)の将校。(1892年~1944年)

※「リー=マロリー(Leigh-Mallory)」というのが正しい姓(二重姓)だが、本稿では「マロリー」で統一する。なおミドルネームにも「リー(Leigh)」が入っているので注意。


略歴編集

1892年、チェシャー州モバリー(イングランド)の教区牧師だったハーバート・リー=マロリーの息子として誕生。


元々は法の世界に行くことを希望しており、法学部の学士を修得すると法廷弁護士となるためにロンドンの法曹学院へと進学したが、第一次世界大戦の開戦の報を聞くと国防義勇軍への入隊を志願、一等兵として入隊する。


一次世界大戦初期に歩兵からパイロットに転向し、主に爆撃機偵察機に搭乗し活躍。この経験から空陸直接協同(直協)の有用性を主張し、その権威となった。


バトル・オブ・ブリテンにおいては第12戦闘機群司令の職にあり、戦闘機の大規模集中運用計画「ビッグ・ウィング」を提唱。中隊規模の運用を重視するキース・パーク第11戦闘機群司令や上司のヒュー・ダウディング戦闘機軍団司令と対立。政治工作でパークとダウディングを失脚させたが、この時すでにバトル・オブ・ブリテンは終息しており、大勢に影響はなかった。

その一方、フランス国内のドイツ軍拠点を攻撃し、アシカ作戦阻止を図ったが、平均して独軍機1機撃墜のために英軍機4機を失う状況になってしまう。さらに1942年のディエップ上陸作戦の指揮を執るも、独軍の新鋭機フォッケウルフFw190の前に大損害を出してしまった。


このような失策もあったが、空陸直協の第一人者としての声望は衰えず、1943年にはヨーロッパ大陸反攻作戦のために空軍合同司令部の設立を提案、RAFやアメリカ軍を説得して回り、連合軍遠征空軍の設立を実現。総司令官としてオーヴァーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)を成功に導く立役者の一人となった。ドイツ軍V1飛行爆弾(フィーゼラーFi103)に対しても、発射基地爆撃や本土防空体制強化で対処し、脅威を防いだ。


1944年8月、マロリーは、ビルマ(ミャンマー)に本拠を置く東南アジア司令部空軍の司令官を命じられ、対日本戦に取り組もうとしたが、1944年11月14日、妻と共に任地へ向かう途中、乗っていた飛行機がアルプスで悪天候に見舞われ墜落、殉職した。


「そこに山があるから」という名言で知られる登山家ジョージ・ハーバート・リー=マロリーは実兄。くしくもトラッフォードもジョージ同様山にて命を落とすこととなった。


人物像編集

エネルギッシュで好戦的な性格だったが、尊大で傲慢な人物であるとも言われ、特にパークとダウディングの排斥運動に対しては空軍長官アーチボルト・シンクレアはマロリーを糾弾する書簡を首相ウィンストン・チャーチルに送っている。


その一方、空陸直協や「ビッグ・ウィング」など新しい戦術には積極的だった。またパイロットとしては地味な役目といえる空陸直協・航空支援では高い手腕を発揮し、マロリーを「臆病な野郎」と酷評していたバーナード・モントゴメリーでさえ、ノルマンディーの戦いでは「マロリーを遠征空軍王総司令官から外してはならない。彼ほど地上戦の勝利のために飛び立つ飛行機乗りはいないし、彼はその勝利を妬まない」と評したほどであった。


関連項目編集

RAF イギリス軍

トレヴァー・マロニー:TVアニメ『ストライクウィッチーズ』に登場する彼がモデルと思しきキャラクター

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