ニムロッド
にむろっど
『ニムロッド』とは旧約聖書の登場人物が語源であり、ヘブライ語の「ニムロド」を英語読みしたもの。旧約聖書によればその血統はノアに連なり、アラビアの伝説ではイスラム教の興る以前に世界を統べた、偉大なる4人の征服者のひとりにも数えられる。
まず、ニムロッドの解説に移るまえに、原型であるDH.106「コメット(彗星)」についておさらいしてみよう。
生い立ち
第二次世界大戦中、イギリスはアメリカとの役割分担により、主に爆撃機開発を重点的に進めていた。しかし時の首相チャーチルは、戦争終結後に果たしてイギリスが技術的先進性を確保できるのかを心配し、将来的なニーズを調査して研究開発する委員会を立ち上げ、開発案を国内メーカーに提示した。
もちろん本格的な活動は戦後になってからだったが、ジェット戦闘機の開発成功で自信をつけたデ・ハビランド社では「世界初のジェット旅客機開発」と表明してこれに応えた。委員会から提示された開発案よりも大規模で複雑なものであった。
誕生の困難
が、開発が進むにつれて、当初予定していた遠心式エンジンでは出力が不足し、かといって新式の軸流式エンジン開発は専門技師のほとんどがアメリカ・ソビエトに独占されてしまっていた。残る道は独自研究しかないが、それでもかなり遅れてしまう見込みとなった。というわけで取るもの取りあえず、手持ちで最強の遠心式エンジン「ゴースト」で代用し、とにかく完成を急ぐことになった。
そうして1949年7月27日、アメリカなど世界のライバル企業を抑え、ついに世界初のジェット旅客機は誕生した。ジェット化の恩恵は速度に表れており、同時期のレシプロ旅客機に比べれば200km/hは速かった。
輝かしい舞台へ
1950年には最初の生産機が英国海外航空へ納入された。初めてのジェット旅客機のため運用ノウハウを2年かけて構築すると、1952年5月2日にヒースロー・ヨハネスブルグ間航路にはじめて投入された。
1953年には待望の軸流式エンジン、ロールスロイス「エイボン」が完成し、これを搭載したコメット2が初飛行を遂げた。速度が良くなったのは当然ながら、燃費向上のおかげで航続距離は実に1.4倍近く長くなった。
が、その矢先にとんでもない事件が待ち受けていたのである・・・
彗星、胴体を切り裂いて(物理)
1954年1月10日、英国海外航空781便がイタリア・エルバ島沖でとつじょ消息を絶った。墜落事故である。事故の瞬間は漁師が目撃しており、急遽救出に向かったが、果たすことはできなかった。
のちに15名の遺体と、郵便物その他遺品の回収に成功し、検視の結果、急減圧により即死したものと判断された。空中分解である。
原因は機体の火災が疑われた。それで全てを説明できたわけではないが、以降同型機には火災対策を強化され、再び運航を開始した。
・・・が、同年5月4日、事故は再発。南アフリカ航空201便墜落事故である。
墜落したと思しき海域に向けて艦船や航空機を派遣し、大捜索が試みられたが、わずかな残骸のほか5名の遺体を回収(のち1名漂着)できただけだった。
「いくらなんでも、まだまだ新しい機体に2件も事故が続発するのはおかしい!」
こうしてチャーチルは資金や手間、人員を惜しまない徹底的な原因究明を指示。とくに先に墜落し、残骸を多く回収できた781便を中心に調査することになった。このあたりの経緯はこちらなどの詳細を参照願いたいが、とにかくこれで「コメット」の信用は地に落ち、すべての注文は取り消しになってしまう。
当然、せっかく完成したコメット2の注文も。
もちろん事故原因調査中は新造機を販売できず、この間にもボーイングやダグラスといったアメリカ企業がバンバン販売を拡大したせいで、コメットは完全に行き場を失うことになるのだった。
「ジェット旅客機は時期尚早」
そんな意見も聞かれるようになり、航空業界の一部ではターボプロップエンジンが注目を集めた。ロッキード社ではL-188「エレクトラ」を開発するが、57年にはボーイング707が星のごとく登場し、「コメット」ともども顧客をごっそり奪われてしまうことになるのだが、それはまた別の話である。おかしい。コメット(彗星)もエレクトラ(おうし座17番星)も、『星』はこっちだったはずなのに。
こうした停滞の間、他社はぐんぐん追いつき、コメット以上に優れた機を送り出していった。いくら事故分析を受けて改設計(コメット4)されていたとはいえ、ジュド・カラベルやVC-10といった自国製旅客機にも売り負けてしまい、こうして残ったコメットはすべてイギリス軍輸送部隊で引き取ることになった。
RAF(イギリス空軍)のコメット
1958年から事故対策改修済みのコメットC.2(コメット2相当)の運用が始まり、コメットC.4に適宜入れ替えながら1975年まで運用された。のちに政府専用機としてコメット5も提案されたが、こちらはそれ以上計画が進むことはなかった。
1859年、ブレゲー「アトランティック」の共同開発計画から離脱したイギリスは、1963年からシャクルトンの後継機開発に着手することになった。ホ-カー・シドレーは「トライデント」旅客機を基にした哨戒機を提案するが、開発費高騰が懸念されたため、デ・ハビランドから引き継いだ「コメット」の設計を基に、機材収容のために胴体下半分だけを再設計した計画で臨んだ。
この計画はみごと採用(65年2月)となり、66年1月には38機の発注を受けた。最初の2機はコメット4から改造され、見た目からしてすっかり別物になった「ニムロッド」MR.1と名づけられた。P-3と違い、機内に兵器倉は設けられておらず、魚雷や爆雷といった武器はすべて主翼パイロンに吊架する。
ニムロッドMR.1
1969年から配備の始まった最初の型。
一見では「コメット」に似ているが、胴体断面が洋ナシかヒョウタンのような下膨れになり、尾翼には通信傍受・分析用の大型ESMアンテナ、そして胴体後端にもMADブーム(磁気探知機)が追加されて別物の見た目になった。エンジンもロールスロイス「スペイ」ターボファンエンジンとなり原型よりも性能向上。46機生産。
この時点では、やや古臭く見えること以外は普通である。
ニムロッドR.1
1974年に配備された電子偵察機で、胴体上部には海兵隊員のレンジャーカットよろしく、アンテナが多数林立している。どう考えてもかなり「目立つ」仕様ではあるが、それでも冷戦中は存在が極秘にされていた。
同様の目的に改造された機には、アメリカではC-130BⅡやERB-47H、RC-135などがあたる。
ニムロッドMR.2
MR.1から32機が改造された型であり、主に電子装備を更新。
フォークランド紛争では空中給油に対応できるよう受油装置を追加し(MR.2P)、サイドワインダー用のランチャーも装備した。
護衛戦闘機が随伴できないため、イギリス艦隊の長距離索敵に従事していたアルゼンチン海軍機と鉢合わせした際に対抗できるように、という配慮だったのかもしれない。そうだとしても「気休め」以外の何物でもないだろうが、これも英国面なのだろう。
世界各地で主だって活躍したが、2006年の墜落事故で、残存機の命運も完全に尽きることになった。
ニムロッドAEW.3
ニムロッドのシリーズでも、AEW型は英国面の極致である。
特徴的なのは「見た目」であり、機首にはコメット由来の端正な顔を悪趣味に歪ませる、凶悪な(様々な意味で事実)レーダーを装備している。とくに最初の試作機は大ゲテモノ(ほめ言葉)。
機首と同様のレーダーが尾部にも装備されており、これで前後あわせて360度を監視できる。
こうした配置にはレドームを背負う方式に比べて『空力特性を損なわない』『尾翼など機体の一部が死角にならない』という利点も存在するが、どう考えてもレーダーを2基つけるのはもったいなかった。供給できる電力は変わらないので、どうせなら強力な1基を動かすほうが効率は良かったのだ。前後レーダーを同調させるにも苦心した挙句、開発は遅れて費用も高騰。結局はE-3「セントリー」を輸入したほうがいいという事になって不採用。結果、前任のAEW型シャクルトンはご老体にムチ打ってこのセントリーが就役する1991年まで使われ続ける羽目になる。
オチまで輝かしい英国面であった。
ニムロッドMRA.4
来るべき21世紀を見据えて開発されたニムロッドの改良型。最新設計のターボファンエンジンに換装し、そのために機体の図面を書き直した。
コクピットはA340の技術を応用してグラスコクピット化、電子機器も入れ替えられ、しかもこの内容で全機改造(新規生産なし)。むしろ生産から30年以上も経っている分、修復など仕立て直しの方に手間・暇・カネがかかりそうな案件だったが、案の定おかげで開発も長引いて費用超過、計画は先延ばしを続け、そのせいで痛みがすぎて墜落する機体も出たために現存するニムロッドはすべて飛行停止。
計画は中止され、後継はP-8を導入することになった。結果的に無駄になった費用は40億ポンドにもなるのだとか。やっぱり英国面を地で行ったオチだった。
1967年に初飛行して以来、北海だけでなく、フォークランドや紅海も駆け回り、イギリスの外交政策に従って世界中を駆け巡った。非常に長い期間を現役で過ごした訳だが、同じく現役生活の長いB-52やTu-95と違い、ニムロッドは目立った改修も、新規生産からも縁遠い生涯を過ごした。
登場当時すでに目新しいものの無かったニムロッドだったが、4発エンジンから生み出される余剰電力は大出力のレーダー・センサーにも難なく対応し、AEW型も生み出されたとおりである。このように意外にも哨戒機としての適性は高かった訳だが、予算削減の皺寄せを一身に受けつつ、老朽化し続ける機体にもムチ打ちながら働き続けたものの、2006年にはとうとう痛みが限界にきて墜落事故を起こしてしまった。
末期こそ、国家財政の前に晩節を汚される事態になってしまったが、その価値はP-8のような新型(?)機が登場しても尚現役が望まれたとおりで、こうならないためにも本当ならば生産は続けられるべきであった。製造されて以来42年も任務を続けられたのは、ひとえに整備員や搭乗員が大切に扱ったからに他ならないだろう。やはりここは「長い間、本当におつかれさまでした」の言葉に尽きる。
なお、この機の後継は前述のようにP-8だが、選定過程では我が国開発のP-1も候補に上がっていたことは記憶に新しい。受注を逃したことは残念ではあるが、しかしただでさえ金欠のイギリスに、かの「オプション(UAV)が金喰い虫」なP-8を運用しきれるのだろうか。我々は、新たなる英国面の目撃者となるかもしれない・・・