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概要編集

首都アスンシオン
面積40万6796平方km
人口約678万人(2022年)
建国1811年5月14日(スペインより独立)
公用語スペイン語グアラニー語(南アメリカ先住民の言語)
通貨グアラニー
国家元首(職)大統領
政体大統領制 共和国

正式名称はパラグアイ共和国(スペイン語:República del Paraguay、グアラニー語:Tetã Paraguái、英語:Republic of Paraguay、通称:パラグアイ)、南アメリカ中央南部に位置する共和国。農業を産業の主としているが、貧富の差が大きいのが問題となっている。


東と北東でブラジル、西と北西はボリビア、南と南西はアルゼンチンと接する内陸国にもかかわらず、海軍を保有する。これは河川を伝って大西洋まで進出可能である為。


国旗編集

デザインが裏と表で異なり、表面には国章。裏面にはライオンと自由の帽子、「平和と正義」(PAZ Y JUSTICIA)と記したリボンを配置した国庫証印がある。現時点ではサハラ・アラブ民主共和国と同様。


歴史編集

初期編集

1536年2月にスペインはアスンシオン地域に最初の入植地を設立し、当初の入植者はグアラニー族の間で平和に生活していた。1542年11月にパラグアイはペルー副王領の一部となり、1811年5月に独立するまでスペインの統治に服した。


独立編集

1811年5月に共和国として独立し、この独立はラテンアメリカにおける初の正式な独立であった。その後はホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア執政官による独裁が開始されたが、経済政策などは先進的なものであり、この時代は非常に発展したと言われる。この時彼は移民が過度に権力を持つ事を警戒してスペイン系移民とインディオの混血の奨励を行っており、結果的に現代のパラグアイは南アメリカでは珍しく、国土のほぼ全体に渡って先住民の言語や文化が色濃く残る国となっている。独裁統治は彼の甥で大統領に就任したカルロス・アントニオ・ロペス、その子供のフランシスコ・ソラーノ・ロペスの3代に渡った。


戦禍編集

1864年11月にウルグアイの内戦に介入する形でブラジルと戦争を起こす。しかし頼りにしていたアルゼンチンの反体制派の指導者は動かず、さらに援助していたウルグアイの政権が崩壊し、たった1国でこれら3国を敵に回す状況に陥った。この戦争を裏で手を引いていたイギリスの活躍もあって敗北し、大統領の戦死・領土の戦前の4分の3となる・人口が半分以下になるという結果に終わった。

政治・経済がボロボロとなり、人口不足をヨーロッパからの移民によって補うようになったが、他の国よりもその量は少なかった。

1932年9月にパラグアイ北西部に存在したグラン・チャコをめぐってボリビアチャコ戦争が勃発し、ボリビアを押し返して逆にボリビア領内に侵入するも、そこで資金が尽きて講和となった。この戦争において領土は得たものの、膨大な戦費と4万人の損失に比べれば割に合わないものであった。


独裁政権編集

1947年3月に内戦が勃発し、支配者層が勝利するも20万人が亡命する。1954年8月にブラジルの手引きもあり、アルフレド・ストロエスネルがクーデターによって大統領に就任する。

このときに日本移民の契約が締結されている。

政権初期は不安定であったものの、徐々に安定して言論弾圧を実施し、反対派を力で押さえていた。しかし外国からの借款を受けて国内の近代化を推し進め、それによって経済的には安定させた。統治の後期になると汚職などの政治の腐敗が進み、1989年2月のクーデターによってストロエスネルはブラジルへ亡命。


民主化へ編集

民主化政策を実施した事により、1993年に文民統治が成立したが政権は不安定、2008年には大統領が弾劾。さらに軍部の政治力がを未だに強い状況である為、話はややこしくなっている。


国際関係編集

アメリカ合衆国編集

1861年11月に外交関係を樹立し、政府・ビジネスなどで広範な両国関係を築いている。アメリカはパラグアイの民主主義の強化と経済改革の継続を強く支持しており、これは半球の国々の間の協力の基礎となっている。更にパラグアイの民主主義制度を擁護し、1999年3月の政権交代が更なる流血を伴わずに実施された事を保証する上で重要な役割を果たしてきた。


中華民国(台湾)編集

1957年7月に外交関係を樹立し、両国関係は歴史的な友情として説明されている。2018年2月に経済協力協定が発効され、関税の引き下げが導入された。


日本編集

1919年11月に外交関係を樹立し、この時に2国間貿易協定が締結された。1942年1月に第二次大戦を受け一時断交、1952年11月に日本・1953年1月にパラグアイがサンフランシスコ講和条約を批准したことで回復した。伝統的に友好的な外交関係が継続されており、日本は非常に高い評価を受けている。


2018年12月に安倍晋三首相はパラグアイを訪問し、マリオ・アブド・ベニテス大統領と会談した。この会談で日本が医療機器を供与する事などで合意し、インフラ協力に関する文書の署名式に出席した。その後現地の日系パラグアイ人と懇談し、安倍首相は「日本とパラグアイは地理的な距離は遠く離れているが、心は近くに感じる事ができる。日本は常に皆さんと共にある事を忘れないで欲しい。」と呼びかけた。


スペイン編集

1880年9月に外交関係を樹立し、この時に平和友好条約が締結された。1936年7月に開始されたスペイン内戦では、8人のパラグアイ国民が共和派の国際旅団の一部として戦争に参加した。パラグアイはフランシスコ・フランコ政権でも外交関係を維持し、アルフレド・ストロエスナー大統領の時に両国関係が強化された。


ロシア連邦編集

1909年4月に外交関係を樹立し、1992年5月に現在のロシア連邦と新たに樹立した。2007年9月にセルゲイ・ラブロフ外相がパラグアイを訪問し、ロシアが首都のアスンシオンに大使館を開設すると発表した。


2018年6月にマリオ・ベニテス次期大統領はモスクワを訪問し、プーチン大統領にチャコ戦争で戦死したロシア将校の命令書・その戦争で使用された弾丸から鋳造された7キログラムの彫像を贈呈した。


渡航編集

日本国籍者は90日以内の観光滞在なら査証は不要。

日本の外務省はコンセプシオン(北部中央)は反政府武装グループの活動が活発なため近づかないようにと勧告。また、首都アスンシオン周辺や領事館のあるエンカルナシオン、ブラジル国境都市では麻薬関連犯罪が多発しているため注意とのこと。


関連タグ編集

南アメリカ  Paraguay

イグアス河

岡林洋一


参照編集

wikipedia:同項目及びリンク先

パラグアイ日本人会連合会:パラグアイにおける日本人移住の歴史

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