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久保田城

くぼたじょう

久保田城は羽後国秋田郡久保田に江戸時代から明治時代にかけて存在した日本の城郭である。
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場所編集

 この城は秋田県秋田市千秋地区(旧国名:羽後国秋田郡久保田)に存在した。別名は矢留城(旧城の名称より)、葛根城秋田城(便宜上の名称、実際には古代同一名称の別の城が存在したためこの名称では呼ばれない)などが存在する。

特徴等編集

 この神明山に築かれた平山城(平野の中に存在する山や丘陵等に築城された城)である。この城の特徴としては天守閣が当初からなく(これは徳川家康ににらまれないようにするためともいわれる)、「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷がその代替として存在していること、石垣が低く、途中から土塁を盛られている(この形式を鉢巻土手と呼ぶ)ことが特色であったとされる。

 この城は本丸(藩主の居城と政務所)、二の丸(重要施設)、三の丸(重臣の屋敷など)となっており、二重のが囲んでいたとされる。

歴史編集

 この城が建築された地域には江戸時代以前には秋田氏(この地域を収めていた豪族である安東氏を継ぐ一族。戦国時代にはこの周囲を統治していた)の配下である三浦氏により、鎗留ノ城矢留ノ城と呼ばれる城が建築されていたようであるが、この時代のことはよくわかっていない。

 しかし17世紀初頭、秋田実季と領地を入れ換わる形でこの地に入った右京大夫であった佐竹義宣は、当初秋田氏の居城であった土崎湊城(出羽国土崎湊に存在した平城、説明している城ができた際に破却、現在は土崎神明社が設立され、市街地となっている)に入ったものの、手狭であったこと、防御に問題があったことにより、城の移転を行うことになる。

 その際、新たな城を建築したのが先に城が建築されていた神明山であった。そしてそこに新たに築かれた城は窪田城と呼ばれる城であった。城の築城後、城下町なども整備された。

 しかしその名称はあまり景気の良いものではなかったこともあり、建築の約30年後、本丸の焼失後にその文字を窪田より久保田と改めた。

 さらに18世紀にもこの城は火災にあい、建物のかなりの数が焼けている模様である。

 なお、戊辰戦争において佐竹氏は新政府軍に味方し、幕府側に攻撃されたものの、城自体には被害はなく、廃藩置県の際にも陸軍管轄になるものの、城はそのまま破却されず残存された。

 ところが、この城は明治13年に火災を起こし、城の建物はほぼ全焼。その後陸軍はこの土地を手放し佐竹氏に返却、城跡は秋田県公園(ただし公園内に市民会館や図書館神社(複数存在し、この中には藩主であった佐竹義宣飛脚として仕えたとされる与次郎狐を祭る与次郎稲荷神社も紆余曲折を経てここに存在)となった。

現状編集

 先にも述べた通り、公園となっている。現存する構造は御物頭御番所(18世紀に建てられたもの)、堀と土塁の一部であり、御隅櫓本丸表門はのちに再建されたものである。

関連タグ編集

公園 江戸時代 日本史

参照編集

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