九八式中戦車
きゅうはちしきちゅうせんしゃ
性能諸元
全長 | 4.75mまたは5.29m |
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全幅 | 2.3m |
全高 | 不明 |
重量 | 10.73t〜12.5t |
搭載砲 | 長砲身47mm戦車砲(構想段階では短砲身57mm砲) |
副武装 | 機関銃(砲塔と車体の正面に1門ずつの計2門) |
装甲 | 最大25mm |
最高速度 | 30km/h〜41km/h |
備考 | 数値のバラツキは、試作車が複数あることによる |
九八式中戦車は、1938年に採用された九七式中戦車 チハに代わる中戦車として研究・開発が始まった。厳密にはチホ、チホ車と呼ぶのが正しく、九八式中戦車という呼称は非公式である(後述)。
(以下、九八式中戦車はチホ車と表記する。)
要は、九七式中戦車が持っていた防御力や武装といった戦闘能力はそのままに、エンジンの洗練・小型化によって車体を縮小する事で、生産性や整備性、運用性を向上を目指した戦車である。
悪くいえば九七式中戦車の簡略版であるが、けして劣化板というわけでもない。例えば、スペイン内戦等の海外の戦争の情報から搭載砲を対戦車戦闘を重視したモノを当初から装備することを計画していたり、現場の意見を取り入れて、それまで砲塔の後ろに装備していた機関銃を正面辺りに移すことで即応性をあげるといった先進的な面が見られる。
そもそも九七式中戦車自体、(1930年代半ばの日本としては)少し無理がある設計であり、特にエンジンの設計は当時の日本の技術的には制作難易度が高く、結果的に大きく重いわりには、非力で壊れやすい仕上がりとなった。通称チハ機と呼ばれるこのエンジンは、設計上は200馬力を発揮出来るはずだったが、実際には140以下の馬力しか出せないという悲しみを背負っていた。(よく資料に見られる170〜150馬力という数値は好条件下のものとされる)
当時の戦車は重量が増えることで操縦が難しくなるという特性があり、こうなると運転手の育成がなかなか出来ず、戦車があっても運転手がいないという状況に陥る可能性があったし、性能通りの速度を出せなくなることもあった。(この問題は油圧装置による補助や変速機の種類を変更することで解決するが、戦車そのものの重さが増えるにしたがって、それに合わせるように油圧装置も変速機も新規開発しなければならない。)
また、戦地にある河川を通過する為の、橋の建設作業または補強工事が面倒くさい事になることも大問題だった(最前線まで橋の資材や道具、作業員を前線にたくさん送るのが難しかった)。
このような問題は九七式中戦車が開発される以前から懸念されており、拡大が止まらない戦場と爆発的に増加する兵器の需要という状況から、質より量、とにもかくにも数量を重視せねば、その供給が追い付かず数が揃わない。そして数が揃わなければ、部隊編成も訓練も戦術研究もままならないと考えられていた。
(日中戦争や太平洋戦争中には、書類上は○○式中戦車で編成されているはずの部隊が、実はより弱い車両で構成されていたというケースがよくあったらしい。)
なんで(九七式中戦車なんか)作ったんですかねぇ?
九七式中戦車の開発時、性能重視のチハ案と量重視のチニ案を試作しどちらにするか話し合っていた。どちらかといえば兵士側はチハ案を、上層部はチニ案を所望しており、なかなか決着がつかなかった(本命はチニ案だったが、上層部はチハ案も捨てがたいと考えており、単純な話ではなかった)。
ところが、当時険悪な関係にあった中華民国と開戦したことで、日中戦争が勃発。予算の制約がなくなった代わりに新型戦車の完成が優先されたため、議論を中断するような形でやや強引にチハ案が採用される。
この採用に関して、上層部はチハ案の量産はあくまで一時的な短期間のモノであり、チハ案で一時しのぎをしている間に、本命の新型戦車(チホ車)の研究開発を進めていこうとしていたようである。
なんやかんやあったが、結局チホ車は採用されることはなかった。ノモンハン事件などといった、ソ連との国境紛争の結果を踏まえて量産性や火力の向上だけでなく、機動性や防御力の強化が重要視されたからである。そのためには既存戦車の簡略版などという、やる気のないようなモノよりも、既存の国産戦車が抱えていた根本的な問題点を解消し、質の向上を求めた本格的な戦車の開発にシフトすることになる。
ただ、チホ車の開発で培った経験は無駄になった訳ではなく、その後の戦車開発で活用されていく。
(結果論でいえば、簡略版なんぞ開発せずとも、九七式中戦車そのままがマシだったという見方や上層部を否定的に見た意見も多く見られるが、当時の状況を踏まえれば上層部の考えも決して愚策ともいえなかったのである。)
長所
- エンジンの小型化により、車体が縮小され軽量化したことで、生産性が向上する。
- 軽量化したことで、操縦性が改善し運転手の育成が捗る上、機動性の向上にも繋がる。
- 軽量化により運用費用が下がる。
- 九七式中戦車と比べて搭乗員が4人から3人減ったことで人件費の節約ができる。
- 従来の国産戦車は砲塔の真後ろに装備していた機関銃を主砲の隣の位置へ変えたことで、対応能力が向上した。
- 対戦車戦闘を重視して、試作の段階で長砲身47mm砲を搭載することになっていた。
搭載砲のあれこれ
・チホ車の主砲は当初、将来的には戦車同士の戦闘を重視した武装にするけども、当面は九七式中戦車と同じものを搭載するという予定であったのは先述した通り。
・当時、九七式中戦車に搭載されていた砲は九七式五糎七戦車砲である。これは、日本初の量産型戦車である八九式中戦車の搭載砲のマイナーチェンジ版といえる代物で、土嚢などで覆われた陣地の破壊を重視したものであったが、戦車に対する効能は低く、特に太平洋戦争序盤で起きたアメリカ軍戦車との戦いで問題となった。
・なぜこのような砲を搭載したかというと、戦車が世界各国で研究開始されてから長い間、「広大な戦場において、ごく少数の戦車が敵のごく少数の戦車と遭遇するのはまれであり、高級品でもある戦車をごく少数の敵戦車の対処に使うのは非効率である」という考えが支配的だったからである。
もちろん、各国ごとに差があったが、兵器開発の分野でも欧米の後追いになりがちな日本は、戦車との戦いがソ連との紛争する前まで皆無だったこともあり、上記の考えから完全に抜け出すのに時間がかかってしまった。
ノモンハン事件の誤解
・日本にとっては初めての、戦車同士の戦いが繰り広げられたノモンハン事件だが、実は日本初の戦車戦は小規模かつ局地的なものであり、大規模なものではなかった。日本側の戦車は敵戦車で撃破されたものは少なく、損傷要因の大半はソ連軍陣地への攻撃に出た際に、ソ連側の反撃で使用された45mm対戦車砲によるものだった。
・日本陸軍の戦車部隊の重役らは、事件の情報が伝わる前から戦車同士の戦闘が増加することを予測していたものの、軍全体としては事件後であっても考えを改めることはなかった。むしろ、事件の様相から戦車の必要性を懐疑的に見る意見が多く出、戦車無用論まで現れたという。(一方ソ連は戦車の強化を希望した。)
その他
・ちなみにノモンハン事件を代表とするソ連との紛争にて、ソ連軍戦車を一番破壊したのは「九四式速射砲」であるが実は、敵戦車に対する威力は九七式五糎七戦車砲と目糞鼻糞だったりする。(原因はいずれも砲弾が対コンクリート弾の構造に近く、対戦車用に洗練されきっていなかったためである。)
呼称
開発中のコードネームはチホ(…なんか人名っぽい)。チホ車と呼ばれることもある。
このコードネームの由来は中戦車(ちゅうせんしゃ)の『チ』に、何番目に開発されたかを示す「イ・ロ・ハ・ニ・ホ・ヘ・ト…」の5番目にあたる『ホ』を組み合わせたモノである。
(別の例をいうならば、最初に開発された中戦車ならば『チイ』というコードネームが付いていたりしなかったりする)
日本陸軍では戦車や装甲車に対して、このような法則のコードネームを付けるのが伝統であったが、決して渾名や愛称の類いではない。
あくまで開発中に情報漏えいを防ぐ為の処置であって、人間でいうところの仮名や偽名或いは開発陣内での呼び名である。
実際に兵器を運用する側は、これらのコードネームを使用することはほぼなく、○○式××車というような制式名称か、制式名称にまつわる渾名で呼称することがほとんどである。
例えば九七式中戦車の場合は、九七式だとか九七と呼ばれたようだ