概要
大阪桐蔭高校から1988年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。(大阪桐蔭高校からは初のプロ野球選手でもある。)
細身の体型ながら、150km/hの速球とスローカーブを織り交ぜた投球スタイルで、1990年代を代表する投手として名を馳せた。
ナゴヤ球場時代(1989年~1996年)
1993年には自身初の開幕投手に選ばれ、17勝を挙げて最多勝や最多奪三振など、主な投手タイトルに輝き、沢村賞を受賞した。
1994年には、読売ジャイアンツと最終戦で勝てば優勝がかかる試合(世に言う10.8決戦)に先発登板する。しかし、緊張してしまい4回を投げて5失点で敗れ、チームは優勝を逃すという悔いの残る結果となった(試合直前に、巨人に移籍していた落合博満から「お前のカーブを狙うぞ」と言われカーブを投げられなくなってしまった、と後にTV番組で告白している)。今中本人も印象に残る試合として、この10.8決戦を挙げている。
1995年、1996年も2ケタ勝利を挙げて、球界を代表する左腕に登り詰めるが、この頃既に、肘や肩の疲労に蝕まれていた…
ナゴヤドーム時代(1997年~2001年)
本拠地がナゴヤドームに移った1997年に左肩を故障、同年と1998年はわずか2勝に終わる。
1999年にはチームはリーグ優勝するが、今中本人は白星を挙げることができず、入団後初の未勝利に終わった。
2000年は遂に一軍登板なしに終わり、2001年を以って、現役を引退する。この時31歳の若さで、本拠地がナゴヤドームに移ってからはわずか4勝に終わってしまった。
ちなみに
TV番組「フルタの方程式」において、初めて野球をした時に近所のおばちゃんから渡されたグローブが左利き用で、それ以来ずっと左利きとしてプレーしていた(つまり本来は右利き)ことを告白している。
プレースタイル
140km/h台前半ながらキレと伸びが凄まじいストレートと、時には球速差50km/h以上を記録するスローカーブとのコンビネーションで打者を翻弄する。
このスローカーブは92年春の骨折後のリハビリで身につけたもので、腕の振りがストレートとほとんど見分けがつかず、(むしろストレートより速く腕を振るよう心掛けていたという)93年の奪三振王はじめ各タイトル獲得の主因となった(今中の247奪三振以降、シーズン200奪三振は記録されていない)。
またカーブ修得以前からSFFも投げていたが、「自信がなくぶっつけでしか投げられなかった。周囲からも『落ちないフォーク投げるな飛ぶから』とバカにされた」と告白している。
現役時代後半ではストレートを動かしたりシンカー等の新球を覚えようとしたが、球速の衰えをカバーするまでは行かずそのまま引退。
しかしながら、全盛期の鮮烈なイメージから「史上最高の左腕は今中」と力説するファンは多い。