日本の柔道家。オリンピックは三回出場、バルセロナ五輪金メダリスト、アトランタ五輪銀メダリスト。
その圧倒的なカリスマ性と鮮やかな一本背負いを得意としたことから「平成の三四郎」の二つ名をとった。
概要
福岡県久留米市出身、佐賀県育ち。中学校から本格的に柔道に打ち込むために世田谷区に一人で上京し講道学舎に入門。高校では名門世田谷学園に入学し、団体戦優勝、個人戦優勝など輝かしい成績を残しながら日体大進学。
ソウル五輪では三回戦敗退し、そこから一本背負いだけでは勝てないと寝技や釣込腰など様々な技を磨く。1988年からの戦績は特に輝かしいものがあり次の金メダルは確実といわれたが、1991年に吉田英彦との乱取りで左膝を負傷、試合出場に黄色信号が灯る。その後鎮静剤を打ちながらもバルセロナ五輪に出場し、見事に劇的復活の金メダル。特に優勝時の蹲踞してのガッツポーズは後世に残る名シーンとして語り継がれることになった。
その後は怪我に苦しみつつもなんとかアトランタ五輪に出場、しかし決勝で一度は勝った相手に敗れたことで金メダルでないと意味はないと引退を決意。引退後は指導者となり、川崎市高津区に古賀塾を開く。そして愛弟子の谷本歩実が金メダリストとなり、師匠と喜びあった一幕もあった。後に大学柔道部の監督を転々とする。また自身が怪我に苦しんだことからスポーツ医学の博士号を獲得、指導に専念しその朴訥な人間性から皆に親しまれていた。
しかし晩年は病魔に冒されてしまい、2021年53歳の若さで癌により逝去。皆がその若すぎる死を悼んだ。
柔道界のカリスマ
このように確かに輝かしい成績を誇ってはいるのだが、そこまで皆が驚くほど圧倒的な成績ではない(山下泰裕の公式戦200連勝以上など)のも事実である(たとえば、古賀に影響され、2大会連続五輪金メダルの大野奨太などの方が成績は圧倒的)。しかし、それでも皆が異口同音に「古賀なしで今の柔道界はなかった」と言い切るには理由があった。
- 柔よく剛を制すの言葉どおりの柔道家だった
古賀稔彦は身長169cmと男子では小兵の部類である。しかしながら、95kg級の実力者もものともせず何度も自分以上の体格の選手に互角以上の戦いを見せて一本背負いで投げ飛ばしたりしている。それまでの実力者といえば山下泰裕や斉藤仁といった大柄な人間ばかりで、小兵な選手が大男をなぎ倒すことにカタルシスやカリスマ性を感じた人は少なくなかったといい、下降気味であった男子柔道の人気は古賀によって復活したともいわれている。
- 端正な顔立ちで絵になりやすい人物だった
若い頃は決してイケメンというほどでもないが、普通に絵になる端正な顔立ちであり、そしてどちらかというと男が惚れる男でもあった。そして、彼に影響されて始められた柔道漫画が『柔道部物語』(同作は『1・2の三四郎』にも影響は受けている)であり『帯をギュッとね!』であり、いずれの主人公も古賀稔彦がモデルとなっている。それだけでなく『YAWARA!』に対しても、作者の浦沢直樹が古賀を見ていなかったら、この作品の構想は生まれなかったと言い切っているほどであり、猪熊柔が大柄な選手をバタバタと投げ飛ばす構図はまさに古賀稔彦のイメージそのものであったという。この三作品が後の柔道界にどれほどの影響を与えたか語るまでもないだろうが、それらの源泉がいずれも古賀であったことは特筆に値するものといえる。
- 柔道界を見捨てなかった
古賀と同世代に活躍した吉田秀彦と小川直也はバルセロナ五輪を最後に柔道界を退き、総合格闘家に転身している。これには男子柔道では食っていけない、理不尽なぐらい女子柔道ばかり注目されるようになった(これに関しては、五輪三連覇ながら軽量級などの理由で注目されなかった野村忠宏も暗に苦言を呈していたことがあった)などの事情もあった。それに対し、古賀は「自分はまだまだ」と言って、柔道界を、男子柔道を引っ張っていく決意をしている。そしてアトランタで銀メダルに終わった後の引き際も鮮やかであり、その後も決して柔道を悪く言ったことがなかった。そして、彼という人格者がいたお陰で彼をリスペクトしていた鈴木桂治、大野奨太という金メダリストが生まれ、今に至るわけである。