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概要編集

1942年2月16日、マレーに従軍していた辻原実は、自作の歌詞を記した手帳をシンガポールの英軍降伏の取材のためジョホール・バルに来ていたマレー軍宣伝班に託して「物になったら何とかしてもらえんでしょうか」と依頼した。


これを受け取った宣伝班の長屋操は、「暗い歌詞だが、云うことだけは、いやに本当のことを云っていて迫力がある。七五調だから曲づけは易しいだろう」と考え、陣中新聞の「建設戦」誌上で曲の募集を行った。。しかし適当な曲が集まらなかったので海軍軍楽隊に作曲を依頼し、の2つの曲案を受け取った。


宣伝班では曲甲を採用し「建設戦」で発表したところ、評判となって全軍に広がり、内地でも歌われているのがわかった。曲乙は海軍軍楽隊に返還したが、この曲も後にテイチクと日本コロムビアのレコードとして発表された。


レコード編集

この曲は先述の通り2種類の旋律が存在する。

レコード会社4社の競作で1942〜43年にかけてレコードが発売された。

  • 曲(甲)
大東亜レコード(ポリドール1943年3月10日発売
歌唱石井亀次郎
日本音響(ビクター1943年3月20日発売
歌唱鳴海信輔、斎田愛子

  • 曲(乙)
テイチク1942年4月3日録音、5月15日発売
歌唱東海林太郎
ニッチク(日本コロムビア1942年3月31日録音、6月20日発売
歌唱酒井弘、日蓄合唱団

始めは、テイチク東海林太郎の盤がリードしたが、戦局の推移と共に、哀調の帯びたポリドール石井亀次郎の盤に人気が集中、現在歌われるのはこちらが主流となっている。



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軍歌 戦時歌謡 歌謡曲 懐メロ

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