概要
1942年2月16日、マレーに従軍していた辻原実は、自作の歌詞を記した手帳をシンガポールの英軍降伏の取材のためジョホール・バルに来ていたマレー軍宣伝班に託して「物になったら何とかしてもらえんでしょうか」と依頼した。
これを受け取った宣伝班の長屋操は、「暗い歌詞だが、云うことだけは、いやに本当のことを云っていて迫力がある。七五調だから曲づけは易しいだろう」と考え、陣中新聞の「建設戦」誌上で曲の募集を行った。。しかし適当な曲が集まらなかったので海軍軍楽隊に作曲を依頼し、甲と乙の2つの曲案を受け取った。
宣伝班では曲甲を採用し「建設戦」で発表したところ、評判となって全軍に広がり、内地でも歌われているのがわかった。曲乙は海軍軍楽隊に返還したが、この曲も後にテイチクと日本コロムビアのレコードとして発表された。
レコード
この曲は先述の通り2種類の旋律が存在する。
レコード会社4社の競作で1942〜43年にかけてレコードが発売された。
- 曲(甲)
- 曲(乙)
始めは、テイチク東海林太郎の盤がリードしたが、戦局の推移と共に、哀調の帯びたポリドール石井亀次郎の盤に人気が集中、現在歌われるのはこちらが主流となっている。