概要
1971年4月から10月までの約半年にかけて放送された
それまでTBSの『8時だョ!全員集合』で超絶大な人気と地位を築き上げてきたドリフターズは当時所属していた芸能事務所『渡辺プロダクション』の意向により日本テレビで約半年間、毎週日曜日夜7時の生番組を担当することになり、そのため全員集合は1971年の3月で一旦休止となった(後述)。
内容は全員集合とほぼ同様のフォーマットで構成され、前半約20分のコント、ゲストを交えてのショートコント他、加藤茶によるお絵かきコーナーやいかりや長介が刑事に扮してゲストを尋問する取調室のコーナーなど、エンディングでは加藤茶がやはり全員集合と同じく子供の視聴者に「宿題しろよ!」「風邪ひくなよ!」などと呼びかけていた。
何故、こんな番組が作られたのか?
当時、全員集合のプロデューサーをしていた居作昌果氏が渡辺プロの初代社長で創業者だった、渡辺晋から日本テレビがドリフの冠番組を作りたいという熱烈なオファーがあり、そのためドリフが日テレでやっている半年間、全員集合はしばらくの間、休止にしてほしいという趣旨の説明というか要請を告げられ、渡辺プロも同事務所の看板スターでドリフの兄貴分にあたるクレージーキャッツや双子デュオザ・ピーナッツが出演していた『シャボン玉ホリデー』で一躍有名にしてくれた日本テレビへの恩返しと義理立てがあるのではないかと思われていた。
その頃の全員集合は1970年12月の時点で45.7%という年間最高視聴率を記録。翌71年1月にはさらに上回る50.4%の視聴率となり、名実とともに『お化け番組』の名を冠していた。
それを一プロダクションの都合で番組を休止しろという、ある意味正気の沙汰ではない要請に対し、TBS内部では「蜂の巣をつついたような大騒動」となり「渡辺プロ所属のタレントを今後一切出禁にするべきだ」という強硬論が全社内で蔓延していたという。
しかし結局は「絶対に『全員集合』にはなりません。ドリフが出ているだけで高視聴率になるほど世の中甘くはない。たった半年じゃないですか。『全員集合』は、その先何年でも頑張れるはず」という居作プロデューサーの意見を受けて、全員集合の半年間休止が決定。本番組の開始に至った。
前述の通り、全員集合と同じフォーマットで作られたことから二番煎じと評され、大掛かりなセットやバックバンド生演奏などに掛かる制作費を大量に消費したことで「こんなに金の掛かる番組なんかさっさとTBSに返してしまえ!」という日テレ幹部の批判を買う形となり、最高視聴率も26%と及ばず結局当初の予定通り半年間の放送に終わった。
終了後、日本テレビは自社製作番組の予算削減を余儀なくされ、ドリフターズはTBSで全員集合を再開することになった。
と、他局で同じ規模の番組を作っても絶対に『全員集合』にはならないというTBSの思惑はほぼ、的中したのだった。
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8時だョ!出発進行 ドリフターズの抜けたTBS土曜8時枠を担ったハナ肇とクレージーキャッツによるバラエティ生番組。
黒歴史?