概要
弘化4年(1847年)?~文久3年(1863年)9月26日
芹沢鴨、平山五郎が暗殺された10日後、長州派の間者であったとして原田左之助によって殺害された。
同日には同じく間者であったとして御倉伊勢武、荒木田左馬之介が殺害され、松永主計、越後三郎、松井龍三郎が脱走した。
子母澤寛の『新選組物語』では「美男五人衆」の一人とされる。
八木為三郎の回顧談によると「元服したばかりの弱々しい美男子で、優しい人物だった」という。
彼が本当に間者であったかどうかは定かではないが、久留米の勤皇家真木和泉の日記に「夜、楠十来る」という記述があり、これが間者であったという傍証とされることがある。