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榧(駆逐艦)

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かや

大日本帝国海軍の駆逐艦。樅型駆逐艦2番艦と松型駆逐艦11番艦が存在する。ここでは後者について解説する。

概要

舞鶴海軍工廠にて建造、1944年9月30日竣工。当初は訓練舞台である第十一水雷戦隊に編入され、後に第三十一戦隊に移る。

訓練終了後からは輸送船団などの護衛に従事していた。ところが昭南行きのヒ88船団の護衛を終え、そのままマニラ方面に進出したところ、12月14日に米軍第38任務部隊の艦載機により空襲が発生、マニラを脱出して南沙諸島に退避する事となった。

この頃米軍によりフィリピンのミンドロ島への上陸作戦が進められており、12月15日に上陸が行われた。これを受け、17日に「榧」およびともに南沙諸島に退避していた「」、「」の計3隻でミンドロ島への突入作戦を行う事になった。しかし当時台風の接近により海上は大荒れであり、かつ各艦に故障があった事から、出撃こそしたものの途中で引き返し、サンジャクへと帰投する事となった。その後この突入作戦は第二水雷戦隊を基幹とした駆逐艦・巡洋艦計8隻からなる挺身部隊による攻撃として改めて行われ(礼号作戦)、「榧」も挺身部隊の一隻としてマンガリン湾に停泊中のリバティ船に対して雷撃を行っている。作戦中、後部マスト折損や燃料タンク損傷による火災などが発生、これにより航行速度が低下していた「榧」ら松型駆逐艦3隻は退避中に艦隊から落伍、中途で潜水艦による雷撃で沈没していた給糧船「野埼」の乗員を救助しつつ、12月29日にカムラン湾に帰投。

その後は舞鶴および呉にて修理が行われ、これが完了した後は「」らとともに戦艦「大和」の護衛に従事、沖縄特攻の際も豊後水道を通過するまで第二艦隊の前路掃討を行った。その後は屋代島にて擬装係留され、そのまま終戦を迎えた。

戦後は復員輸送に従事した後、1947年に賠償艦としてソ連に引き渡され、ヴォレヴォーイ(Волевой、ロシア語で『毅然とした』という意味)へと改称、以降、標的艦ЦЛ-23、暖房船ОТ-61等へと役割を変えつつ使われ続け、1959年に退役、解体された。

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