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竹(駆逐艦)

たけ

ここでは松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の二番艦(メイン画像奥)について扱う。

大日本帝国海軍駆逐艦松型の2番艦である。
この名を持つ日本海軍の艦船としては樅型駆逐艦「竹」に続いて2隻目となっている。

概要

横須賀海軍工廠にて建造、1944年6月16日竣工。当初は訓練部隊であった第十一水雷戦隊に編入され、後に姉妹艦のとともに第四三駆逐隊を結成。後に対潜機動部隊第三十一戦隊が編成されるとこれに編入される。
戦中はろ号作戦、マニラ方面輸送作戦等と輸送船団護衛に従事。この中でパラオ方面にて座礁した五月雨の乗員の救援に駆り出されたり、春風旗艦のマタ30船団の護衛に関わり捕虜輸送中の貨客船「阿里山丸」沈没に居合わせたりしている(尚、この件で当時の艦長や水雷長が戦後イギリス軍から尋問を受けている)。

レイテ島の戦いの際には多号作戦(第三次・第五次・第七次)に参加。
11月9日からの第三次多号作戦に参加した際は初春とともに途中ですれ違った第四次輸送船団の一部(長波朝霜若月)と所属を交代している。尚、この後最初に参加していた第三次船団はオルモック湾手前で空襲に遭い朝霜を残して全滅しており、結果的に難を逃れた竹は乗組員の間で「強運の艦」と評されるようになる(とはいえ第四次船団もマニラで空襲に遭ってはいるが、こちらは被害も軽微であったという)。
しかし、続く24日からの第五次作戦では空襲で護衛対象である輸送船3隻のうち2隻を沈める被害を受け、竹自身も至近弾と機銃掃射でジャイロコンパスを喪失してしまっている。これにより宇那木勁艦長の判断によりマニラに帰投、応急修理を受ける事になった。
どうにか応急修理を終え、30日には第七次作戦に参加。12月2日に目的地のオルモック湾に到着し、とともに輸送船3隻の揚陸作業を護衛していた。ところがそこに米海軍第120駆逐群(アレン・M・サウナー、モール、クーパーの三隻)が襲撃、桑が撃沈されてしまう。続いて竹も第120駆逐群の攻撃目標にされてしまうが、これに応戦、魚雷を二発発射しうち一発がクーパーに命中し撃沈する事に成功する。その後モールの放った砲弾が前部機械室に命中、不発ではあったが片舷の機関に浸水し機能停止する被害を受ける。最終的には第120駆逐群は南方へ退去し戦闘は終結、輸送船は被害を受ける事無く揚陸を完了し、12月4日にマニラに帰投した。尚、このクーパー撃沈が日本海軍水上艦最後の雷撃による敵艦撃破となった(潜水艦まで含めると、重巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈した伊号第五八潜水艦が最後)。

マニラに帰投後、被弾した機関の応急修理を行うもうまくいかず、12月15日にマニラから佐世保に向けて出航した。途中猛烈な台風に遭遇する(ちなみにこの台風は、ハルゼー提督率いるアメリカ第三艦隊に大損害をもたらした「コブラ台風」である)も無事に通過し、途中輸送船団を台湾基隆から門司まで護衛しつつ、1945年1月2日に呉海軍工廠に回航される。
その後呉軍港空襲を経て回天搭載改造を行うも、戦局の悪化により屋代島(周防大島)に擬装係留される事となり、そのまま実戦に再投入される事無く終戦を迎える事となった。
戦後は復員輸送に従事した後、1947年に賠償艦としてイギリスに引き渡され、その後シンガポールにて解体されている。

余談だが、橘型を含めた広義の松型の中で、全艦と就役期間が被っているのは竹のみである(1番艦であるの戦没までに就役したのは竹、の4隻であるが、そのうち竹以外は最終艦である初梅の就役以前に戦没している)。
また、第三十一戦隊の新設から解隊まで一貫して所属し続けた唯一の艦艇でもある。

関連タグ

大日本帝国海軍 日本海軍 駆逐艦
松型駆逐艦 松型 丁型駆逐艦
孤軍奮闘艦

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