生涯
生没年:不詳~天正3年12月27日(1576年1月27日)
肩書:緒川城城主
三河緒川城主水野忠政の次男。妹の於大の方は松平広忠の妻。つまり、信元は松平元康(のちの徳川家康)から見て母方の伯父に当たる人物である。
天文12(1543)年に父忠政の跡を継ぐと、今川義元に背いて織田信秀に属した。信秀没後は信長に仕える。信元が今川家を寝返ったことにより於大の方は広忠と離縁を余儀なくされ、久松長家と強制的に再婚させられた。
永禄3(1560)年に桶狭間合戦にて義元が討ち死にしたことで今川家の力は大きく削がれ、今川家臣であった松平元康は織田軍と争い、大敗を喫していた。織田軍との戦闘のさなか、三河国主の吉良義昭を頼るも、戦局はむしろ悪化する一方であった。
その折、信元は甥に面会し、今川家を見限って織田家につくことを勧めた。2年後の清州城での信長と家康の会談が行われると、同盟の仲立を務めた。信元は家康が三河を平定した後も家康の相談に乗るなど強い影響力を持ちつづけた。
元亀3(1572)年に三方ヶ原の戦いにおいては、信長の命を受け、家康の援軍として赴いた。
こうして、信元は織田家家臣として忠実に働き、甥をもよく補佐したが、天正3(1575)年に突然殺された。
というのも、長篠の戦いの後に、信元が武田勝頼に内通し、勝頼の家臣にして美濃岩村城主・秋山信友に兵糧を売っていたという旨を、織田家家臣の中でも古参の佐久間信盛が信長に讒訴したというのである。信元は家康の居城の岡崎城に逃げたが、甥の手の者に殺されてしまった。この時、義弟の久松長家が信元に面会しているが、長家は「『信元が無罪である』という申し開きを信長の前でさせてもらえる」と聞かされていた。しかし、信元が殺害されるのを目の当たりにして、家康に激しい怒りを抱き、隠居することを決めたという。
結局のところ、信元の死に信盛が関わっていたかどうかの詳細は不明なものの、信元の死は三河において、武田家の脅威がなくなった頃と同時期である。信元の殺害は織田家と徳川家の双方の合意でなされたもので、もはや両家にとって信元の存在は無用の長物となっており、尾張や三河において信元が持つ強大な権力の排除が目的であったという説もある。
信元の旧領は信盛に報奨として与えられたが、石山合戦の後に信盛が信長の不興を買って追放される際に召し上げとなった。
信長は信元が冤罪だったとして、家康の下にいた信元の末弟・忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させた。
また、信元の一件がその後の松平信康と築山殿の粛清、石川数正出奔の原因になったともされる。