概要
愛称は「マー坊」。かつて一世を風靡したロックバンド・「クリスタルキング」の元ボーカル(高音パート)として知られている。
生まれは佐賀県伊万里市。 1951年6月30日誕生。
1971年に長崎県佐世保で中村公晴・山下三智夫、他二人と共にクロスロードを結成。米軍キャンプ、ディスコ等で活動していた。
そして1975年より、ムッシュ吉崎が設立した「クリスタルキング」にボーカリストとして(高音パート)参加。
1979年にキャニオン・レコードより「大都会」を発表。同曲は売上150万枚を突破し、更には第18回ヤマハポピュラーコンテストにおいてグランプリ受賞、第10回世界歌謡祭でグランプリと歌唱賞をダブル受賞という快挙を成し得た。
「大都会」でのデビュー時、田中は「スリーオクターブの美声」というキャッチフレーズで紹介されたが、田中本人は新聞のコラムにて「実際に高い音は、出そうと思えばピアノの最高音を超えるぐらいには出る。」と語っている。
実際「AN END」(ソロ曲)では大都会の1オクターブ以上高い音を難なくこなしいる。
前述のことから、「田中=力強い高音」というイメージが強いが、「サマーシェイド」では野太い中音を披露している。
その後、1986年にクリスタルキングを脱退し、ソロ活動を始めた。
同年の「1000カラットのサマーブロンズ」がUCC缶コーヒーのCMソングに採用された。
他にも、「OUT ON THE ROAD」では、過去楽曲の中でも最高音となるhihiG#を記録した。
しかし…。
そんな素晴らしい才能を持つ田中であったが、ある悲劇が起こった。
1989年10月、バンド仲間との草野球の試合中に打球が喉を直撃。一時的に声を失う。本人は「大丈夫だろう」という自己判断ですぐには病院にはいかなかった。
その後、必死のトレーニングで声自体は回復したものの、かつてのハイトーンボイスを出すことができなくなった。「ハイトーンなら自分が一番」と思っていた田中にとって、かなり辛い出来事だった。
「高い音が出ないのならお前は用無し」と、当時所属していたホストクラブを辞めさせられ、彼を取り巻く人物は次々と消えていった。
「人格を全否定された。生きる意味がない。」彼は約3年間悩み続け、ある時には歌を辞めようか、自殺をしようと思った時期もあった。
その時、田中の友人である福岡ダイエーホークス(当時)の若井基安氏に「どんな豪速球の投手でもいつかは変化球で勝負しなければならない日が来る。お前は変化球で勝負する勇気がないのか」と叱咤された。それをきっかけに現実を真正面から受け入れ、失われたハイトーンの代償として得たハスキーボイスを売りにするようになる。
模索。そして…。
1990年代の前半頃、田中は九州・福岡の繁華街である天神のパブにてバーテンをしながらショータイムに出演。再びメジャーな舞台での活躍を模索していた。
1995年10月、クリスタルキングに再加入するが、1998年10月に再脱退した。
そして、1997年、ポッカの缶コーヒー「クリスタルブラック」のCMに出演した事で再ブレイクを果たし、その後もCMはシリーズ化され、彼はその年のCM好感度タレント第1位に輝いた。
また、1998年に放映された特撮TVドラマ・『ウルトラマンガイア』の主題歌を大門一也氏とのユニットで歌唱。続く2000年には特撮TVドラマ『仮面ライダークウガ』にて主題歌およびイメージソングを熱唱した。
二度目の災難。〜死を感じた恐怖〜
前述通り、見事に復活を果たした田中だったが、再び彼に災難が降り注いだ。
東日本大震災の10日後、彼は急性心筋梗塞を発病した。
発病した日の夜、田中が家でTVを見ていたら、急激に心臓が締め付けられるような痛みに襲われ、喉の辺りが焼けるように熱い感覚に陥り、田中はその瞬間、「自分は死ぬ」と思ったそうだ。
彼のマネジャーが救急車を呼ぶ際、彼はマネージャーを止め、風呂場まで這ばり、わざわざシャワーを浴びて服を着た。しかし、これがかえって容体を悪化を招いてしまい、救急車に搬送された瞬間、心肺停止状態に陥った。
ICUで心臓に電気ショックを3回与えてダメだった際に、医師が「これが最後」と言って行った4回目で彼は奇跡的に息を吹き返した。
後に田中は発病した大きな原因はタバコと当時起こった震災に対するストレスと挙げており、これを機に自身の生活習慣を改めたそうだ。
「愛をとりもどせ!!」について
1984年(昭和59年)10月に発表された「愛をとりもどせ!!」。
国民的人気アニメ『北斗の拳』の主題歌に起用され50万枚のセールスを記録した大ヒットソングであり、その後も有名無名問わず、様々なアーティストや声優がカバーするほど。
そんな人気アニメソング・「愛をとりもどせ!!」なのだが、当の本人はアニメが大嫌いであった。
当時の田中は「ロックシンガー」であることに誇りを持っており、そのロックシンガーにアニメの歌を歌わせることに嫌悪感を募らせていた。
レコーディング前、スタッフから「北斗の拳」の単行本が渡されたが、田中は一切読まず、収録に向かったそうで歌い方もかなりやけくそだったそうだ。(田中曰く「すごくムカついてた」)
これらのことがあり、クリスタルキングのLIVEでは一度も歌われることはなかった。
だが、田中は後にこの曲を歌って良かったと供述しており、その理由として「大都会」や「蜃気楼」を印税面で上回ったことを挙げている。
現在でもライブやバラエティー等で同曲を歌っている。
ムッシュ吉崎との関係
前述通り、田中は1975年、ムッシュ吉崎が設立したグループ「クリスタルキング」に加入。
1986年にクリスタルキングを脱退しソロ活動を開始したものの、後に1995年10月、クリスタルキングに再加入した。(この時、田中は既にかつてのハイトーンを失っている。)
その際、ムッシュらバンド側が求めたのは「ハスキーボイスとなり、スタイルを変えた田中昌之」ではなく「かつてのハイトーンボイスで活動していた(全盛期の)田中昌之」であった。
ムッシュは「大都会」を原曲キーでやり、ヒット曲を当時のものに再現したいと言ったのだ。
勿論ファンからしたらは、当時の曲をそのまま(原曲のキーで)聴きたい訳だ。だが、田中の状態を考えると、それは到底無理なことだった。
そしてその揚げ句、何をやったかといえば……口パクであった。
事前に伴奏のキーを下げた状態で田中の歌を録音した後、人工的にキーを原調まで引き上げ、それをTVやラジオ等で流した。その際、田中はマイクの前で口をパクパクさせるだけだったのだ。
人工的な声になった為、コーラス(音を加工する音響機器)を使ってごまかしていたらしく、録音した歌声に合わせて「大都会」を演奏することになる為、ドラマーは通信装置を使い、その歌声を聞きながら叩いていたそうだ。
テレビ出演やステージの長さに合わせ、フルコーラスから1分半、2分…と様々なバージョンの”口パク演奏”の「大都会」が準備された。
こちらがその時の映像である。よく聴いてみると、田中の声が不自然に高い(機械的に聴こえる)ことがわかる。
その後、田中は1998年にクリスタルキングを再脱退した。(その際、ムッシュ除く他のメンバーも脱退)
だが、2009年、グループ名「クリスタルキング」はムッシュの会社が商標登録をしており、元メンバーである田中がコンサートの告知広告等で(”元”を付けずに)グループ名を挙げたりすることは商標権の侵害にあたるとし、ムッシュが田中を相手取り、グループ名の使用禁止及び損害賠償島を求め、東京地裁に提訴した。
だが、2010年、東京地裁は脱退後に元メンバーが「クリスタルキング」の名前を使っても、ムッシュの活動に関する社会的評価を低下させない等としてムッシュの請求を棄却した。
また、ムッシュは田中が1998年にテレビ番組で「クリスタルキングは解散した」と虚偽の発言をしたことについても訴えていたが、これも当該発言から3年以上経過しており時効が成立しているとして棄却された。
以上の法的対応も含め、ムッシュと田中含む他元メンバーの関係は修復不可能である程悪化していると言われている。
尚、2012年1月20日に放送されたABCテレビ系の「探偵!ナイトスクープ」にて、「クリスタルキングの”大都会”を熱唱したい!!」という依頼があり田中とムッシュ両名が出演したが、収録は全く別々であり、二人が共演することはなかった。(田中は依頼主に「大都会」の歌い方のコツを教え、ムッシュは依頼主と共に「大都会」を歌った。)
更に、2013年に九州で2014年には関東でクリスタルキングの元メンバーが集まり同窓会コンサートを開催しファンを大いに喜ばせたが、上述の経緯もありムッシュは不参加だった。
「歌うこと」に対して。
このように、新たに得たハスキーボイスで、音楽活動を行っている田中であったが、そんな彼は”歌うこと”に対して、どこか引っかかってたそうだ。
田中は幼少期から「皆のために歌う」という意識があり、そこから「歌わなければならない」という気持ちが生まれ、仕事やライブがあるとモチベーションが下がってしまうという悪循環に陥ることがあったそうだ。
しかし、2012年某日に田中は藏本天外(くらもとてんがい)氏のカウンセリングを受け、その時「もう自分の為に歌ってもいいんじゃない?」とアドバイスを貰う。その瞬間、彼の意識が180度変わった。
その後、彼にとって歌うことが断然に楽しくなり、「自分ほど充実した人生を送っている奴はいないんじゃないか?」と思うほどである。
現在も田中は「生涯現役ロックシンガー」という目標を胸に、3時間のトレーニングを欠かさずに行っている。
こちらが、カウンセリングを受けた後の田中昌之による「大都会」の歌唱である。様々な困難や試練を乗り越え、屈託のない笑顔を見せ、心から楽しんで歌っていることが分かる。
これからも果てしない夢を追い続け、大空を駆けめぐれ、和製ロバート・プラント、田中昌之。
不祥事
コロナ禍にてカフェの店員からマスクを着けるよう忠告されたが、拒否した上SNSでその出来事を綴り不満をあらわにしたことで批判が巻き起こってしまった。
余談
田中は過去に二回芸名を改名しており、2003年に芸名を田中 雅将。さらに2004年に芸名を田中 雅之と改名していった。
その後、2013年2月より、芸名を本名の田中 昌之に戻した。
自分の葬式にはレッド・ツェッペリンの「天国への階段」を流してほしいと言うほどのZEPフリークとしても有名であり、特にロバート・プラントを"神"と崇めている。
だが、当のロバート本人は「天国への階段」を良く考えておらず、むしろ「心底嫌いな曲である」とまで言い放っている。
関連タグ
松尾駿(チョコレートプラネット):松尾の父親のいとこが田中とのことで、親戚関係にあたる。