概要
日本のレーシングカーメーカーである童夢が1978年に製作したスーパーカー。
開発には、童夢代表の林みのるを始め、由良拓也(ムーンクラフト代表、レース実況者)、小野昌朗(東京R&D代表、レースカーデザイナー)など当時のレース界の巨匠が参画している。
特徴は、何といってもそのスタイルである。
鋭角で構成された楔形のデザインは、日本はおろか世界水準で見ても斬新であった。
前高はわずか980mmしかなく、同じく低いデザインで有名なランボルギーニ・カウンタックより更に90mm低い。
ヘッドライトは当時の流行を反映してリトラクタブル式を採用。
エンジンは自社開発を避け、日産のL28型(145馬力)を流用しミッドシップで搭載。
性能的に突出した数値はないものの、当時の国産エンジンはDOHCやV型が一般的ではなく、これでもハイパワーな部類だったため選定された。
同年にスイスのジュネーヴで行われたモーターショーに出展すると、予想を大きく上回る反響があり、試作車の時点で20件もの予約を受けた。
このため本格的に市販化に乗り出すも、当時の運輸省はどういうわけか申請すら却下。
国内で型式認定を取得する道は絶たれてしまった。
次にアメリカでの型式認定取得を目指し、北米法規に合致させた試作車「童夢P-2」を製作。
しかし、玩具・模型関連の版権料で多額の利益を出した童夢は、更なる話題作を送り出す必要に迫られ、新作としてル・マン24時間レース用のレースカー「童夢-零RLフォード」の開発に舵を切ってしまう。
結果、零の市販化プロジェクトは凍結され、世に出回ることなく終わった。
以降の童夢はモータースポーツに集中することになり、レースの世界で名を馳せて現在に至る。
だが、零の残したインパクトは今なお健在で、昭和のスーパーカーやスーパーカーブームを語る際に頻繁に話題になる車の一つとなっている。
その他
- 「日本初のスーパーカー」と言われることがある。市販化していなため、これは人によって見解が分かれるところである。
- 低く鋭いデザインの代償として、車内空間は極めて劣悪だった。身長175cmがギリギリ乗れる程度とのこと。
- ジュネーヴで零を予約した者の中には、アクション俳優のスターであるブルース・リーもいたという。
- 零、P-2共に童夢本社に現存しており、P-2は動態保存で走行可能である。
- 平成版ヤッターマン第1話でドロンボー一味(三悪)のボヤッキーが、トンズラーが盗んだ車の部品を使用して零そっくりの「ドロンボー・ゼロ」を作り上げ、その後量産し、そのまま販売した。因みにドロンボー一味はこのドロンボー・ゼロを1台1000万円で売ろうとするのだが(実際は客の高すぎるとの声を受けて100万円で販売)この1000万円という価格は実際の零の販売予定価格と一致していた。第1話のエンディングのスタッフロールで"協力 童夢"のクレジットが表示されていた。