概要
漫画『鬼滅の刃』及び、同作を原作とする劇場アニメ『鬼滅の刃 無限列車編』における、登場人物の炎柱・煉獄杏寿郎が作中で語る台詞の一つである。
詳細
無限列車での戦いにおいて、乗客を血鬼術で眠らせて人質に取っていた十二鬼月の一角である下弦の壱の鬼・魘夢を仕留め、汽車が脱線しながらも全員が生還し安堵する炭治郎と杏寿郎。
しかし、そこに鬼の首領・無惨に命じられ現場に向かっていた上限の参の鬼・猗窩座が現れ、再び一行は境地に陥り杏寿郎が猗窩座と対峙する。
その際に猗窩座は、人間は鍛錬してもやがて寿命により老いて死んでいく弱い存在で、自身の求める至高の領域には辿り着けないとしており、弱い者を忌み嫌う彼は杏寿郎に鬼になるよう勧誘する。
だが杏寿郎はそれを即座に断り、上述した猗窩座の主張を静かに、しかしはっきりと否定する。
「老いることも死ぬことも」
「人間という儚い生き物の美しさだ」
「老いるからこそ死ぬからこそ」
「堪らなく愛おしく、尊いのだ」
そして“強さ”とは肉体に対してのみに言う言葉ではないとして、猗窩座が弱者だと侮蔑した炭治郎を「この少年は弱くない、侮辱するな」と一蹴し、改めて絶対に鬼にはならないことを語る。
交渉決裂として、猗窩座と杏寿郎の戦いは遂に幕を開ける。
“死”や“老い”は、世間的にはあまり良いイメージは持たれておらず、むしろ悪いように思われているかもしれない。
しかし皮肉なことに、人が生きていられることに感謝でき、若さや命を尊く感じることができるのは、“死”や“老い”があるからである。
もし人が死ぬことも老いることも無く、生きていることや若くいられることが当たり前な生き物ならば、人はそれらに感謝の念も尊さも感じないだろう。何故ならそれが当たり前と思っているからである。
人は当たり前と思っていることには感謝もしなければ尊さも感じない、それが他人のことならば尚更のことだろう。
現代に生きる我々も、鬼滅の時代である大正と比べ医療の進歩や生活の安全の向上などにより、平均年齢が倍以上に上がっているが、そのために生きていることを当たり前のように考え、その日その日を生きていられることへの感謝の念や、生命に対する尊敬の念を忘れてしまってはいないだろうか?
どれだけ平均年齢が高くとも、必ずその歳まで生きられるとは限らない。何より遅かれ早かれ人はいずれ必ず死ぬ、そして死がいつどのように訪れるかは自分を含め誰にも判らないのである。この2つはハッキリと判っている。
実際に、どれだけ健康に気を使って元気にしていても、どれだけ事故に遭ったり怪我をしないように気をつけても、嘘の様な簡単な理由で呆気なく命を落とすようなことは絶えない。
作中に登場する、基本的に死ぬことのない不老不死の怪物である無惨率いる鬼達は、そんな生きていられることを当たり前と考え、それに対する感謝の念や生命の尊厳と敬意が、ただ生き続ける事より如何に大切なのかを忘れている現代人を、残酷かつ皮肉たっぷりに写して警告と教訓を促しているのかもしれない。