概要
本名・原田眞。
東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋出身、京都府京都市育ち。
父親は無声映画時代のスターだった藤間林太郎。母親は大阪の帝国キネマに在籍していた際、父が身請けした芸妓である。生後間もなく生母と死別し、母の記憶はないという。兄と姉がいたが、どちらも夭折している。
小学生の頃に父が再婚。しかし、継母との折り合いが悪く、常に反抗していた。藤田本人はこの反抗が継母の心を傷つけ、兄の死の遠因(※藤田の反抗により家庭環境が悪化した事で、兄が戦争に志願したのだと姉に言われたことを自伝にて言及している)となったのではと長年悔やんでいたという。
終戦後、一時期は他家の養子になったが、兄が戦争で亡くなったという知らせを受けて元の家に戻る。肺病を患っていた姉も間も無く他界し、父が家庭を顧みない性質であったことから「頼れるのは己の才覚だけ」と自立を意識し、学校に行かず進駐軍の靴磨きや連絡係などをして生活費を稼いでいた。
その後、かつて父が所属していた一座に雑用係として加わり、やがて他の一座の舞台にも上がるようになった。この頃に「藤田まこと」の芸名を名乗り始め蕗(命名は加藤登紀子の両親)。
19歳の頃、歌手を志し上京。一年ほどディック・ミネの鞄持ち、前座歌手をしていた。その後大阪に戻り日本マーキュリーレコードでアルバイトをしながら歌手として修行を続ける。また、前座歌手として入った仕事で急遽司会の代役を務めたことを機に、巡業の司会者としても活動するようになる。
20代半ばに中田ダイマル・ラケットから誘われ、俳優・コメディアンに転向。「ダイマル・ラケット劇団」に入団する。1957年放送のコメディ時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』にてテレビ初出演。
1962年の『てなもんや三度笠』で主役に抜擢され、人気を博す。その後は東京に活動の拠点を移し、映画やテレビドラマにも出演するようになった。しかし、1971年の番組終了後は再び巡業での活動に戻る。
1973年に、朝日放送のプロデューサーからオファーを受け『必殺仕事人』中村主水役を演じる。これが当たり役となり、以降30年以上に渡って同役を務めることとなった。
また『京都殺人案内』、『はぐれ刑事純情派』などの刑事ドラマや『剣客商売』などコメディ要素の少ない作品などでも、独特の陰のある主役を多く演じた。
ドラマ(時代劇)以外にもライフワークとして舞台演劇に熱心に取り組み、自身でも劇作を手がけている。
時間に厳しく、俳優生活の中で遅刻したのは2回しかなかった。また、藤田にとって時間を守ることは「最低限の約束事」で、遅刻する人間のことは無視していた。
2008年4月、体調不良により病院で受診したところ食道がんであることがわかり、以降治療を続けながら芸能活動を行っていた。2010年2月16日、夕食後の家族団欒の中突然倒れ、病院に搬送されるものの、翌17日に亡くなった。死因は大動脈瘤破裂。
3月に完全復帰を目指してリハビリを続けていたことが報じられており、まさに急逝だった。