象列車とは、終戦直後の1949年に名古屋と各地を結んだ臨時列車。
象を輸送する列車ではなく象を見に行く子供たちを乗せる列車である。
概要
太平洋戦争中、各地の動物園で飼育されていた大型動物や猛獣は空襲で飼育小屋が破壊されて脱走し、大勢の人々を傷つける恐れなどから殺処分され、仮に殺処分を免れても食糧事情の悪化により十分な餌を与えられず餓死したり病気にかかっても治す事ができずそのまま死んでいった。
だが名古屋市の東山動物園では北王英一園長が軍や警察を説得し、象の足を鎖で常時拘束する形で殺処分をなんとか免れた。
それでも食糧不足や病気などにより、当時飼育されていた4頭の象のうちキーコとアドンが1945年1月までに相次いで死亡した。
しかし当時管理していた軍の獣医が軍規違反を承知のうえで兵糧を横流ししたことから残るマカニーとエルドの2頭が戦後まで生き延びた。
戦前、象を飼育していた名古屋以外の動物園である上野動物園、天王寺動物園は戦中に殺処分されてしまい、象が居るのは名古屋だけになっていた。1949年4月24日、当時の上野動物園園長である古賀忠道が、同年5月5日には東京都台東区の子ども議会を代表して中学生2人が名古屋を訪れ、象を東京に貸してもらえないかとそれぞれ請願を行った。
しかしマカニ-・エルド共に高齢化しており、貨車に載せる場合は2頭をそれぞれ別に乗せる必要があり、試しに2頭を引き離したところ、暴れだしてついには象舎の鉄壁に頭をぶつけて血を流したため、東京へ貸し出すのは不可能と判断された。
だが、子供たちに象を見せたい気持ちは北王園長も塚本三(ぞう)名古屋市長も同じであり、東京へ送る事が不可能ならば、逆に子供達を東山動物園へ送ろうという代替案が出され、これが象列車運転のきっかけとなった。
とは言え当時の国鉄の輸送は全て連合国軍最高司令官総司令部に管理されており、臨時列車を設定するのは不可能に等しい。そのため当時の東京・名古屋の鉄道局員は、何度もGHQへ請願を繰り返し、ようやくそれが認められて運転が決定した。
運転の詳細
第1陣
1949年6月18日に彦根発着で運転。国鉄名古屋鉄道管理局が設定し、定員は1400名。
第2陣
1949年6月25日に東京発着のエレファント号が運転された。15両編成で、東京駅21時50分頃発・名古屋駅翌朝7時47分着。復路は6月26日の名古屋駅15時頃発・上野駅22時01分着。
当初は5月22日運行予定であり、本来第1陣となるはずの列車だった。
これは団体専用列車で、1156名の子供たちが乗車した。なお上りの終着駅が上野駅だったのは下町在住の子供の便を図ったためであり、時間帯設定も子供の体力と有効時間の最大限確保を考慮した苦肉の策である。
名古屋駅から東山動物園へは名古屋市電を利用したが、戦災で車両数が足りず、当初は米軍払い下げのトラックに客室を設けた「トレーラー・バス」の使用も検討された。
なおこの列車の編成、運転時刻に関する公式記録は戦後の混乱もあって残っていないとされているが、「エレファント号」というヘッドマーク・テールマークが取り付けられていたという記録はある。
また下り列車に乗っていた子供1人が岩淵駅付近で窓から転落し全治20日の怪我を負ったという記録も残されている。
各地から
東京発着の他、大阪・京都・草津、埼玉・千葉・神奈川、石川・福井、津などから団体専用列車や一般列車に専用車両を連結する形で、象列車は多数運転され、この年の秋までに総数1万数千人を運んだ。
私鉄の近鉄も1949年8月3日から約3ヶ月間、大阪の上本町駅から近畿日本名古屋駅へ向かう列車を設定。総計4万5千人の子供たちが乗車した。
当時の近鉄は大阪線は標準軌、名古屋線は狭軌だったため、伊勢中川駅で乗り換えていたという。
第2回象列車
太平洋戦争の記憶を語り継ぐため、第1回象列車の運転された41年後の1990年8月26日、品川駅7時25分発、名古屋駅13時40分着の下り列車のみで象列車が復活した。EF65と14系客車の編成で、名古屋駅から動物園までは地下鉄東山線で移動。復路は東海道新幹線を利用した。
象列車の終焉
象列車が運行された1949年の5月10日、台東区子ども議会が参議院に象輸入懇請の請願書を提出。同年9月25日にインドのジャワハルラール・ネルー首相からインディラが、これに前後する9月4日にタイ王国からはな子が上野動物園に送られ、東京に象が帰ってきた。
これに伴い翌1950年からは象列車は運行されなかった。
一方で1950年4月28日から9月30日にかけてインディラをワキ1形に乗せて北海道・東北地方17都市を巡る「移動動物園」企画が行われている。
マカニーとエルドのその後
その後も東山動物園では象のショーが行われていたが、1955年6月17日マカニーとエルドが担当飼育員を踏み殺す事件が発生し、象のショーは中止された。
その後も北王園長は毎晩のように象に「ごくろうさん」と声をかけるなど並々ならぬ愛情を注いでいたという。
太平洋戦争を生き延びた2頭は1963年9月と10月に相次いで死亡し、園内に葬られた。
もう一つの後日談
戦前の愛知県には東山動物園のほかに豊橋市立動物園が存在した。当時地方都市の動物園は珍しく盛況だったが、1945年の豊橋空襲によって壊滅してしまった。
しかし戦後の1954年3月、豊橋公園で開催された「豊橋産業文化大博覧会」の会場に豊橋動物園として再開園した。
これにはなんと東山動物園からの惜しみない協力があった。戦時中に北王園長がゾウの助命を懇願した警察官がなんと戦後豊橋市の市長に就任しており、ゾウを見逃してくれた恩義から豊橋市を全面的に支援してくれたという。