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近鉄10000系

きんてついちまんけい

1958年に7両編成1本のみ試作製造された、近鉄初の高性能特急車両。ビスタカーの初代。
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概要

1958(昭和33)年7月11日から運用開始。7両編成1本のみが製造された、試作車にして近鉄初の高性能特急車両(※近鉄800・820系は奈良線無料特急に使用していたが、2扉ロングシートで実際には通勤車であり、近鉄680系は特急車両でも奈良電デハボ1250形&1350形が前身の改造車なのでノーカウント)であった。日本初のダブルデッカー構造を採用し、その後量産された近鉄特急車両の礎を築き、蚕やブルドッグを思わせる正面が特徴であった。


来る国鉄電車特急・急行の脅威に備えて

計画当初、国鉄東海道本線で電車特急・急行の運転計画が持ち上がり、当時は特急より高頻度で運転する急行の方が脅威だった。それに対し、当時狭軌だった名古屋線を標準軌へ改軌し、名阪間の直通特急の運転が計画された。

所要時間では国鉄特急には敵わないのは分かっていたので、居住性で対抗する事にし、当時近鉄の社長だった佐伯勇(1989年没)が米へ鉄道視察に行った際に、ビスタドームと言う展望車に乗った経験から、2階建て車両(今でいうダブルデッカー)車両を導入し、国鉄に対抗する事を決意する。


意欲的だった車両

そして、1958年に当該編成が竣工。7月11日から大阪上本町〜宇治山田間の特急運用で就役し、ビスタカーと命名された。電動車ユニットはボギー車両で、制御車とビスタカーは近鉄初の連接車両となり、また車両検査や需要に合わせて電動車ユニットを減らし5両で運転できるよう構成された。

  • モ10001 上本町寄りに運転台がある先頭電動車
  • モ10002 パンタグラフ二基搭載の中間電動車
  • ク10003・サ10004・ク10005 3車体の連接制御車と付随車で、ク10003は上本町寄りに、ク10005は宇治山田寄りに運転台がある二階建てのビスタカーであり、サ10004は平屋となった。
  • モ10006 モ10002と同構成の中間電動車
  • モ10007 宇治山田寄りに運転台がある先頭電動車

このデータから翌1959(昭和34)に3車体連接車の近鉄10100系が量産され、また同年の伊勢湾台風の復旧と同時に名古屋線も標準軌に改軌。念願の名阪間直通特急の運転が開始され、翌1960年に名阪間のノンストップ名阪甲特急が運転開始。しかし、当時は伊勢中川駅でのスイッチバックを余儀なくされた為、1961年に伊勢中川駅手前に単線の連絡線を設置、当初は久居〜川合高岡間の高速連絡線になる予定だったが予算や工期の都合で大幅に短縮された。10000系も名阪乙特急や名伊特急の運用にも入る様になった。

その結果、名阪間の所要時間は2時間18分に短縮され、東海道新幹線開通前迄名阪間のシェアは近鉄7:国鉄3となり、近鉄の圧勝となった。


その後、塗装を当時の近鉄特急色に改め、先頭車故障時にエースカーの10400系・11400系が代走出来る様に改造された。


迎えた終焉

1966(昭和41)年11月12日、大阪線河内国分駅で準急列車との衝突事故でモ10007号車の前面が大破。当時製造中だった近鉄18200系と同形の正面を取り付け復旧した。また、それまでの間にク10003号車とク10005号車の運転台も撤去された。

その後、1970(昭和45)に座席予約システムがオンライン化し、本形式は1編成のみの異端の存在であったため本形式運用の列車のみ引き続き手作業で予約作業を行っていた。座席予約システムオンラインに非対応なのと冷房装置等が老朽化した為、1971(昭和46)5月9日に鉄道友の会による上本町〜宇治山田間のさよなら団体臨時列車を最後に引退。


車体と台車は解体されたがモーターは2680系に再利用され、2020年まで活躍した。


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ビスタカー 10000系 近畿日本鉄道 近鉄特急 ダブルデッカー 連接車

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