概要
仏教の修行によって悟りを開き、輪廻転生から脱出したとされる聖者である。
煩悩を滅しており、部派仏教においては、仏陀を除けば最高の悟りを得た存在である。
アルハットは「供養に値する者」を意味し「応供(おうぐ)」とも漢訳される。
彼らに衣食住を提供する(供養)事で、供養した人々に大きな功徳と善業をもたらす。
この事から供養を作物の種、阿羅漢を田畑になぞらえて「福田(ふくでん)」とも呼ぶ。
阿羅漢と仏陀の違い
仏陀の称号である「如来十号」の一つにも「阿羅漢」が含まれているが、これは仏陀もまた「供養に値する者」だからである。
仏教学においても釈迦の直説が含まれると推定される阿含経においても、阿羅漢と仏陀は明確に区別されており、ゴータマ・シッダールタ以外の阿羅漢が如来十号の他の九つで呼ばれることはない。
阿含経の一部『ドナ・スッタ』では仏陀は「神でも人でも魔でもない」とされる。
阿羅漢と仏陀の主な違いとしては
・阿羅漢は女性もなれるが、仏陀は女性はなれない。
・仏陀は宇宙が何十億年の年月の単位である「劫」レベルの膨大な年数のうちに、一つの世界に一人だけ現れる存在だが、阿羅漢は(特に)釈迦在世時には多数輩出された。
がある。
ロボットで例えるならば、仏陀が長い時間をかけて作られたオリジナルのプロトタイプだとしたら、阿羅漢は工場で大量生産された量産型といったところだろうか。
上座部仏教においては仏陀と阿羅漢の悟りは同一であり、仏陀は仏法という道の発見者であり自力で悟った事、説法と指導の能力の卓越性によって他の阿羅漢から分けられるのだとしている。
大乗仏教における阿羅漢
部派仏教において、阿羅漢はその徳と教えによって他者を感化していく者とされた。
しかし大乗仏教においては自分ひとりの悟りを追及する「自利」の聖者とされ、阿羅漢ではなく菩薩となりやがて如来となることが目標とされた。
阿羅漢はその生涯を終えると輪廻の世界から消失するが、如来は「仏国土」を主宰し、そこを拠点に六道輪廻の衆生に対し、さらなる救済を行う。
そして菩薩は如来のもとでその活動に参与する。この観点からは阿羅漢になる事を目指す部派仏教は「小乗」と呼ばれた。
仏教学においては初期の大乗仏教と衝突し直接否定されたのは部派のうち「説一切有部」というグループだと推測されているが、
阿羅漢になる事を目指す、という上記の特徴は現存唯一の部派である上座部仏教に当てはまるため、日本において上座部のことも「小乗」と呼ぶ傾向が明治期から戦前にかけて見られた。
しかし現代においては、大っぴらに彼らのことを「小乗」と呼ぶことはなくなっている。
チベット仏教でも「小乗」という語が使われ、ダライ・ラマ14世の著作にも現れる。『ダライ・ラマの「般若心経」 日々の実践』ではタイやスリランカが「小乗仏教の国」と呼ばれている。
十六羅漢
『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』という文献に登場する。
釈迦没後八百年後に当時の阿羅漢ナンディミトラがその存在を説いたとされる十六人の阿羅漢。
そのうち、囉怙羅(ラーフラ)と周利槃特(チューラ・パンダカ)と彼の兄半託迦(パンダカ)そして賓度羅跋囉惰闍(ビンドラ・バラダージャ)は阿含経にも登場する釈迦の弟子である。
彼らは地上世界に残り続け衆生を救う役割を仏から与えられた、という菩薩的な扱いになっている。