概要
扇谷上杉家の家宰(執事)。
享徳の乱、長尾景春の乱などで武勇を振るい、30数回の合戦で無敗を誇った。ほぼ独力で上杉家の危機を救っており、そして江戸城を最初に築城した人物である。
優れた武将、政治家、そして歌人であったが、その力を恐れた主君の手によって暗殺されるという「悲劇の英雄」として後世に語り継がれた。
埼玉県越生町をはじめとした各地には道灌に由来する山吹伝説の逸話(後述)が残り、それを元に落語「道灌」が生まれたという。
生涯
永享4年(1432年)~文明18年(1486年)
室町時代、鎌倉公方を補佐する関東官領・扇谷上杉家に仕える家宰(家長に代わって家政を執り仕切る職責)の太田家に生まれ、元服後は名を資長とした。
上杉家での分家同士による内紛や鎌倉と室町幕府の対立が繰り返され、そんな中の康正2年(1456年)に資長は父から家督を相続し、主君の上杉政真と次代の定正に補佐として仕えた。
上杉家が対立する享徳の乱を起こした足利成氏との戦いに備えるため、江戸家の領地であった武蔵国豊嶋郡に城を築いた。これが後の江戸城である。河越にも築城し、相模や武蔵一帯に勢力を拡大させた。この頃に出家して法名「道灌」と称したといわれる。
文明8年(1478年)に山内上杉家の長尾景春が上杉家に背いて上杉家を攻撃し、道灌は扇谷上杉家に忠義を尽くして各地を転戦。
文明14年(1482年)に対立勢力同士が和議を結び、享徳の乱も景春の乱も終結し、この戦いと道灌の活躍で扇谷上杉家を上杉分家の中でも山内上杉家に匹敵するまでの勢力にまで成長させた。
しかし太田家が絶大な力を持つまでになったため扇谷・山内双方から危険視されだし、道真と道灌は謀反の噂を立てられるようになる。
親子共々謀反の噂には弁明もしなかったが、文明18年7月26日(1486年8月25日)、道灌は糟谷館(上杉定正邸)に招かれたところを暗殺されてしまう。
この時道灌は「当方滅亡」(自分を殺した主家は滅ぶだろう)と言い残して凶刃に倒れ、後にその通りとなった。また刺客が「かかる時 さこそ命の 惜しからめ」(このような時、どれほど命が惜しかろう)と呼ばわったのに対して「かねてなき身と 思い知らずば」(元より存在していない身と悟っていなかったならば)と返したと伝わる。
暗殺の原因や首謀者については扇谷家での内紛や下剋上を恐れた定正の陰謀、山内上杉顕定の策動など諸説ある。
人物
- 文化人としても教養が高く、易経を学び、和歌にも精通して様々な歌を残した。ただし歌道に関しては父の方がさらに上だったとされる。
- 後に関東開拓の功労者の一人として多くの武将や武士に人気が高く、英雄として戦国時代や江戸時代にも称えられ、関東各地に色々な伝説が残されている。
- 一説には足軽による集団戦法の発案者ともされている。
- 父・資清も優秀な人物だったが道灌はその上を行き幼少事から俊英ぶりを見せていた。しかし資清には驕漫に移ったらしく、鶴千代時代から度々訓戒を与えていたがその度に道灌は切り返していた。なお、資清は道灌暗殺の二年後に逝去している。
山吹の里
ある日、道灌は父のいる越生の地を訪れる。鷹狩に出かけた先で突然の雨に遭い、蓑を借りようと農家に立ち寄った。その際、娘が出てきて何も言わず一輪の山吹の花を差し出した。
からかわれたと腹立たしく思う道灌だったが、後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の兼明親王の歌「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。
古歌を知らなかった己の無学を反省した道灌はその後歌道に励み、後に歌人としても名高くなったという。
関連タグ
太田資正(道灌の曾孫)