生没年 1885(明治18)年~1946(昭和21)年
最終階級 大将
概要
高知県暁霞村(現香美市)生まれ。父は開業医で、兄は海軍の軍医となった(最終階級・軍医少将)。
陸軍士官学校を18期で卒業(同期に阿南惟幾などがいる)。陸軍省や参謀本部の課員やスイス、ドイツ、オーストリアの駐在武官などを勤めた。
歩兵第三連隊長を勤めていた時に、二・二六事件を起こす皇道派の青年将校たちとの面識を持ったためシンパとみなされ、事件後に陸軍省軍事調査部長から歩兵第四〇旅団長へ左遷される。
日中戦争が始まると第四〇旅団長として武功をあげ、1940(昭和15)年に航空総監兼航空本部長として中央へ復帰した。
1941(昭和16)年1月から遣独視察団の団長として訪独。ドイツ・イタリア・ソ連を訪問し見識を広め、帰国後に軍組織改革に関する報告書をまとめたが、政治的に対立していた東条英機陸相に骨抜きにされた挙句、関東防衛軍司令官として左遷された。
太平洋戦争
対米英戦が濃厚になると、11月にマレー半島攻略を担当する第25軍司令官に就任した。開戦2ヶ月でシンガポールを陥落させ(トップ画像右後ろの白人の軍人は、その時降伏したアーサー・パーシヴァル将軍)るが、その名声を東条や上級部隊の南方軍総司令官・寺内寿一大将に疎まれ満州の第一方面軍司令官に左遷された。
1943(昭和18)年に大将に昇進したあと陸相に推す動きもあったが、翌19年にフィリピン防衛を担当する第一四方面軍司令官に就任するまで在任した。
フィリピン赴任後は台湾沖航空戦大戦果の誤報を信じた大本営の干渉や、レイテ沖海戦での海軍の敗北などから苦闘し、終戦までどうにか持ちこたえたものの多くの犠牲を出す。
戦後、マニラの軍事裁判でフィリピンにおける日本軍の戦争犯罪の責任を問われ、死刑。
山下埋蔵金
戦時中に旧日本軍が各地から押収した金銀財宝を本土まで運べなかったので戦場に隠した埋蔵金の伝説があり、一部が発見された。
これは戦争後期に本土で金貨が急造され、現地での戦時物資調達費用としてフィリピンに送られたことや、連合軍側が序盤戦の撤退時に隠匿したニッケルのインゴットなどといった両軍の戦略物資などのことで、この伝説を題材にした精緻で巧妙なフィクション小説が欧米で出回って、真実であるかのように流布したことや、上記の「出土品」が話に信憑性を与えたもの。
言われているほど大きな埋蔵金は無いという説や、フェルディナント・マルコスが一部をこっそり手に入れて私腹を肥やしたりしたという説、実際には阿波丸などで運んでいて撃沈されたという説などもある。