概要
大日本帝国海軍へと入り、1910年に海軍兵学校を卒業。
1941年12月8日の太平洋戦争勃発時には少将として第七戦隊司令官の任にあり、マレー、ボルネオ等の攻略戦を1942年3月まで支援し、4月にはベンガル湾で通商破壊戦を行う。
5月1日、中将に昇進。
6月のミッドウェー海戦に参加し、戦隊は重巡洋艦三隈を失い、最上が大破する被害を受ける。
7月、第三戦隊司令官に就任。
10月13日にガダルカナルのヘンダーソン飛行場を夜間砲撃を行う。其の後もガダルカナル島攻防戦では南太平洋海戦、ガダルカナル撤退戦に参加。
1943年8月、第二艦隊司令長官に就任。
11月7日にラバウルに進出していた第二艦隊などを中核とする遊撃部隊はアメリカ第38任務部隊の空襲を受け、主力の重巡洋艦7隻中5隻が損傷し、特に重巡洋艦摩耶は機関部を損傷して大破航行不能。第二艦隊・第四戦隊旗艦である重巡洋艦愛宕も至近弾3発で艦長も戦死する損害を受け、栗田は旗艦を無傷であった重巡艦鳥海に継承させ、遊撃部隊を率いてトラック島に後退する事となる。
1943年6月のマリアナ沖海戦に参加。この折に栗田は三つに編成された日本艦隊のうち戦艦・重巡洋艦を主力とする前衛部隊を率いたが、海戦は多数の航空機を失い敗北し、前衛部隊も空襲で空母千代田、戦艦榛名、摩耶が損傷している。
10月22日、レイテ島に上陸したアメリカ軍船団を撃滅する為に第二艦隊を中核とした第一遊撃部隊を率いてブルネイを出撃。
23日、パラワン水道で潜水艦の攻撃により旗艦愛宕、摩耶が撃沈され、損傷した高雄が引き返す被害を受ける。栗田は旗艦を戦艦大和に移して指揮を続ける。
24日、シブヤン海で5時間以上の250機を超える敵機の波状攻撃を受け、戦艦武蔵が沈没、重巡洋艦妙高が損傷し引き返すなどの損害を受ける。この折に艦隊は敵を欺瞞する為に一時反転し、その後に再反転してレイテ湾進撃を再開。
25日、レイテ湾に突入した第三遊撃部隊である西村祥治中将率いる艦隊が壊滅したとの報告が入るも半信半疑のまま進撃中の艦隊は第77任務部隊第4群に所属する護衛空母を中心としたアメリカ艦隊と遭遇。敵主力機動部隊の一部と誤認した艦隊はこれを攻撃し、護衛空母1隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻を撃沈するも航空機・駆逐艦などの必死の抵抗で重巡洋艦鈴谷、鳥海、筑摩を失うなどの損害を受ける。レイテ湾突入を優先する栗田は攻撃を途中でやめ、艦隊を集結させて空再度レイテ湾に進撃を始めが、北方30海里の距離に敵主力機動部隊がいるとの報告にこれを撃滅すべく艦隊を反転させ北上するも発見できず28日にブルネイに帰投した。(実際は小沢治三郎中将の第三艦隊が敵主力機動部隊を北方に誘引していた)
1945年1月15日、海軍兵学校校長に就任。
10月5日、予備役に編入。
海軍もなくなり、公職追放され、軍人恩給支給も停止された折には筆耕業で生計をたてたという。
1977年12月19日、兵庫県西宮市にて死去。
余談
●海軍大学校甲種卒業生ではなかった栗田は第三戦隊司令官が海軍での最後の役職であり、これが終われば予備役編入と考えていたが、思いもかけず第二艦隊司令長官に就任した時は「こんな野武士にさせちゃ駄目だろ」と思ったという。
この為か海軍内での栗田批判者には海大甲種卒の者が多いとの声もある。
●同期の三川軍一中将とは仲が良く、それは戦後も変わらなかった。レイテ沖海戦で北方に敵機動部隊が居るとの内容の誤報告「ヤキ1カ」電については、栗田は後に「あれは(当時南西方面艦隊司令長官)三川が打ったもので、三川の電報だったから北に行った」と言う内容を語ったという。
●小沢治三郎中将が亡くなる数日前に家に彼の家に見舞いに訪れ、小沢は目に涙を浮かべながらやせ細った手で栗田の手を握り離さなかったという。
●海軍兵学校の最後の学校長となっている。
この人事に関しては左遷されたとも言われるが、将来の海軍を背負う軍人を教育する役職は当然ながら重要なものであり、高木惣吉少将が「敗戦の将を兵学校長にした」と批判したように栄転と思われる。
●レイテ沖海戦での反転行動が有名だが、占領軍からの質問には答えたものの、国内ではジャーナリストに対する不信もあってか多くは語らずに様々な推理が世の中を巡ることとなった。