プロフィール
略歴
戦後間もない1946年、芝居関係の仕事をしていた兄の勧めで五代目古今亭今輔に入門し『古今亭今児』(ここんてい いまじ)を拝命。「二ツ目として寄席に出す以上は、それ相応のレベルに達しておかなければならない」という師匠今輔の方針により寄席での前座修行は一切やらされていない。
3年後の1949年に真打昇進し四代目桂米丸を襲名。
1962年、初代林家三平らと共に『創作落語会』を結成。
1977年、日本芸術協会から改称された落語芸術協会・初代会長に就任。
2024年(令和6年)8月1日、老衰のため都内の病院にて死去。享年99歳。大正生まれの落語家としては存命する最後の一人であった。
人物
「お婆さんの今輔」と呼ばれた新作落語派の今輔の影響によるものか、弟子である米助がヨネスケに改名したり、前座時代の竹丸がテレビ出演するなど、当時としては型破りとされた言動に対して寛容な態度を見せている。そもそも自身がテレビ放送黎明期から活躍している点から言えることだが、まだそれほど普及していなかったビデオカメラで弟子の初舞台を撮影するなど最新家電に対しても貪欲な姿勢を見せていた。
晩年までフサフサの髪の毛に丸顔という若々しい容姿をしており、90歳を過ぎてもなおビーフステーキをペロリと平らげるような健啖家であった。
桂歌丸との関係
師匠今輔との不和により5代目今輔一門を破門になり、浪人生活をしていたかつての弟弟子である古今亭今児(後の桂歌丸)を改めて自身の弟子として引き取り桂米坊として復帰させる。因みに実力には問題がなかったため、米丸は米坊を弟子というよりは座付き作家、今で言うブレーンに近い扱いをしていた。
『笑点』や芸協らくごまつりでは歌丸と比べて若々しい容姿から、彼の弟子と勘違いされるのがお約束だった。
2018年(平成30年)7月2日に歌丸が先立って死去した時は御年93歳で弟子の弔辞を読む側となり「俺の方が先に逝くと思っていたのに」と落胆していた。
テレビ出演
- 『笑点』演芸コーナー不定期出演
- 『日曜演芸会』司会者
- 『お笑いスター誕生!!』審査委員長
- 『お笑いマンガ道場』初代司会者