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概要編集

生年~没年:天保10年(1839年)~慶応4年3月3日(1868年3月26日)。江戸時代幕末にて活躍した人物で、赤報隊の一番隊隊長。尊皇攘夷派志士。本名「小島四郎左衛門将満」。


江戸出身。下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。息子に河次郎がいる。


尊皇攘夷活動に身を投じ、天狗党の乱などに参加。

慶応2年(1866年)ごろ、薩摩藩西郷隆盛らと親交を結び、武力倒幕を目指す薩摩藩の支援の下、江戸にて放火や略奪を繰り返し幕府を挑発。

慶応3年(1867年)、大政奉還により武力倒幕の大義名分を失うが挑発行動を止めず、出流山事件などを起こす。渋谷和四郎率いる幕府軍に敗れ、薩摩藩邸に匿われていたところ、庄内新徴組がこれを襲撃。相楽らは江戸を脱出する。この事件がやがて鳥羽伏見の戦いへと発展する。


慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたが、新政府軍の資金不足などによる事情によって、方針が変更され撤回されてしまう。

その後も赤報隊は活動を続けるが、指揮していた薩摩藩は江戸薩摩藩邸宛てに彼らへ対して、関東での攪乱工作の停止を指示し大政奉還の翌日にも「鎮静」するように念を押すなど、何度も自重を促す命令を出していたにもかかわらず、相楽たち一番隊は指示を全く聞こうとせずに出流山事件荻野山中陣屋襲撃などを引き起こし、信州では赤報隊の隊士による押し借りや略奪が横行した。

そもそも相楽たちの軍資金も豪商を襲って得たものであった。


こうして官軍の名を盾に、命令を無視して度重なる独立行動や独断専行を繰り返し好き放題に暴れ回っていた経緯から、相楽たち一番隊は小諸藩をはじめ信州やその近隣の諸藩から反感を持たれるようになり、状況を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは結局それにも従わなかった。


このままでは信州諸藩を敵に回してしまう危険もあり、そのため遂に政府は相楽たちを見限り、一番隊を偽官軍として彼らに不満を持っていた信州諸藩に捕縛命令を通達し、連合を組んだ諸藩に攻撃を受けたため、相楽は今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じ、官軍参謀・進藤帯刀により下諏訪宿で捕縛され一番隊の暴走は終結し、同年3月に下諏訪で処刑された。享年30。


妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した。後に総三の首級は地元出身の国学者で総三とも親交があった飯田武郷の手によって盗み出され、秘かに葬られた。


元赤報隊で相楽の死後に岩倉具視の暗殺を企てた落合直亮は、岩倉の命懸けの説得により思い止まり、彼の伝手で政府の官吏となったことで赤報隊の名誉回復に尽力し、その甲斐もあり明治3年(1870年)、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。更に相楽の孫の木村亀太郎の努力により、昭和3年(1928年)に正五位が贈られ、翌昭和4年(1929年)、靖国神社に合祀された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、遂に名誉が完全に回復されたのである。


青山霊園立山墓地に彼の墓所がある。


(一部『Wikipedia』より抜粋)。


なお、本人の写真は存在が確認されないが、息子の河次郎のは存在する。


創作作品における相楽総三編集

るろうに剣心

詳しくは→相楽隊長


兵馬の旗

もう一人の主人公である村田新八郎と親交を作った場面があり、日本の未来について語っていた。後に史実どおり、新政府の陰謀により「年貢半減令」のお触書をなかった事にされ、偽官軍として処刑された。その首級を見た新八郎も慟哭し、助けられなかったことを悔やんでいた。また、相楽を慕う者も多く、新八郎に「相楽を助けてくれ」「嘘を言う男ではない」とせがんでいる者もいた。


ライズオブローニン

江戸決戦を引き起こすという共通の目的で「鬼の手の侍」と手を組む。切腹エンチャの使い手。

詳しくは→相楽総三(ライズオブローニン)

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