概要
山形県出身。
名前に関しては「いのしろう」と書いた書が多く出版されており、彼もニックネームとして「いのさん」「いのしろさん」と呼ばれていたが、「いしろう」が正しい呼び名。その影響を受けた海外の文献ではこの二つが混在している。
1933年にPCL(現在の東宝の前身)に入社し、山本嘉次郎等の助監督となる。同じく山本の門下生には黒澤明や谷口千吉がおり、彼等とは親友だった。
3度の徴兵を受け太平洋戦争を戦い抜くが、この間に両親や兄弟が全て他界。1946年、中国から引き揚げてきたときに汽車の中で見た原爆によって壊滅した広島の様子に大きな衝撃を受けた。
徴兵が長引いた為、山本門下生三人の中でもっとも先輩であるにもかかわらず黒澤や谷口に遅れて1951年、40歳の時に監督デビューを果たす。(黒澤は1943年、谷口は1947年に監督デビュー)
1953年の映画『太平洋の鷲』以来円谷英二とコンビを組んで多くの特撮映画を監督した。
特に日本ではゴジラシリーズの監督として有名であり、1954年の『ゴジラ』は世界中で大ヒットを記録。世界中で名前が知られるようになる。後に彼が撮影した特撮映画はほとんどが海外進出を果たした。
1967年からはテレビドラマの監督も務め、円谷との縁から帰ってきたウルトラマンやミラーマンといった円谷プロ作品も監督した。
1971年に東宝を退社。1975年のメカゴジラの逆襲を最後に監督を引退し、以降は黒澤明の演出補佐となった。
1993年死去。盟友黒澤明は彼の墓標に「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした。映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました。平成五年二月二十八日 黒澤明」と刻んだ。
後年の特撮監督にも彼は大きな影響を与え、メキシコ出身の映画監督ギレルモ・デル・トロは2013年の映画『パシフィック・リム』のエンドクレジットで「この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ」と献辞。2014年のハリウッド版ゴジラの監督、ギャレス・エドワーズは54年版の登場人物芹沢大助と本多の名前を合わせた芹沢猪史郎という人物を登場させた。
作品
映画監督作品
『青い真珠』1951年
『南国の肌』1952年
『港へ来た男』1952年
『続思春期』1953年
『太平洋の鷲』1953年
『さらばラバウル』1954年
『ゴジラ』1954年
『恋化粧』1955年
『おえんさん』1955年
『獣人雪男』1955年
『若い樹』1956年
『夜間中学』1956年
『東京の人さようなら』1956年
『空の大怪獣ラドン』1956年
『この二人に幸あれ』1957年
『別れの茶摘歌』1957年
『わが胸に虹は消えず』1957年
『地球防衛軍』1957年
『花嫁三重奏』1958年
『美女と液体人間』1958年
『大怪獣バラン』1958年
『こだまは呼んでいる』1959年
『鉄腕投手 稲尾物語』1959年
『上役・下役・ご同役』1959年
『ガス人間第一号』1960年
『モスラ』1960年
『真紅の男』1961年
『妖星ゴラス』1962年
『キングコング対ゴジラ』1862年
『マタンゴ』1963年
『海底軍艦』1963年
『モスラ対ゴジラ』1964年
『宇宙大怪獣ドゴラ』1964年
『三大怪獣地球最大の決戦』1964年
『フランケンシュタイン対地底怪獣』1965年
『怪獣大戦争』1965年
『フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ』1966年
『お嫁においで』1966年
『キングコングの逆襲』1966年
『怪獣総進撃』1968年
『緯度0大作戦』1969年
『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』1969年
『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』1970年
『メカゴジラの逆襲』1975年
監督補佐
『影武者』1980年
『乱』1985年
『夢』1990年
『まあだだよ』1991年
テレビ
『新婚さん』1967年
『夫よ強くなれ』1969年
『帰ってきたウルトラマン』1971年(第1・2・7・9・51話)
『ミラーマン』1971年
『緊急指令10-4・10-10』1972年
『サンダーマスク』1972年
『流星人間ゾーン』1973年