概要
この人物は第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間アメリカ海軍に所属した士官であり、最高階級は大将。また、退役後はフィリピンの大使にもなった。
ミッドウェー海戦とマリアナ沖海戦ではそれぞれ指揮官として重要な働きを行い、アメリカ合衆国を勝利へと導いた。
また、アメリカ軍艦スプルーアンス級駆逐艦およびアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦61番艦に彼の名前が付けられている。
生い立ち等
この人物は1886年にボルティモアにて生まれ、その後インディアナポリスに引っ越す。弟が知的障害を持っていたため、母の実家に預けられるが、預けられていた家が破産、父親も破産していたため、高等教育を受けるためアメリカ海軍兵学校に入学。
士官不足により半年卒業が早まるが、そこそこ優秀な成績で卒業後、実習先として戦艦で勤務したり、民間企業であるゼネラル・エレクトリック社で研修を行ったりした後、士官となる。
士官時代から第二次世界大戦前
その後戦艦、軽巡洋艦に乗務する。優秀であったため中尉昇進、駆逐艦艦長となる。
第一次世界大戦前にニューポート・ニューズ造船所海軍監督官に就任、そこで製造された戦艦に電気担当士官として乗り込むこととなる。その後ブルックリンの海軍工廠に勤務となるが戦時特例で少佐昇進。第一次世界大戦の終結後は輸送船アガメムノン(もとはドイツの客船、カイザー・ヴィルヘルム2世)の副官としてヨーロッパ派遣の米軍輸送に従事。戦時特例で中佐昇進。
再び駆逐艦艦長に就任する、この際駆逐隊司令出会ったウィリアム・ハルゼー( 後の航空戦闘部隊司令官、南太平洋方面軍司令官 )と出会う。
1921年海軍省技術部電気課長、正式に中佐昇進。1924年にヨーロッパ・アメリカ海軍部隊参謀、その後再び駆逐艦艦長となる。1926年に海軍大学校に入学、翌年卒業すると海軍作戦部情報課に勤務、その後戦艦副官、海軍大学の通信教育部門責任者となる。大佐に昇進。1933年3月に合衆国艦隊偵察艦隊駆逐艦群の参謀長、海軍大学の職務、戦艦艦長を歴任。
1940年2月、少将。カリブ海と西印度諸島を含む第10管区の初代司令官となり、プエルトリコの基地建設にかかわる。1941年、太平洋艦隊所属第5巡洋艦戦隊司令官となる。
太平洋戦争
真珠湾攻撃においては任務で帰路途上であった。しばらくはハルゼー中将指揮下で各種作戦に参戦していた。
ところがハルゼー中将はストレス、あるいは過労のためか皮膚病の悪化により休養、ミッドウェー海戦に参戦、勝利に導く。
この戦いののち、チェスター・ニミッツ大将の参謀長となる。ガダルカナルへの現地視察などを行う。
1943年に中将。中部太平洋艦隊司令官。「ガルヴァニック作戦」の攻略戦を指揮。1944年、大将。マリアナ沖海戦により日本機動部隊を壊滅させたものの、当初戦果が不明であったため批判される。
北マリアナ諸島を占領し、次の目標地域として硫黄島及び沖縄を選択( ほかには台湾が考えられた )。硫黄島の戦いを指揮。
続く沖縄戦では日本軍の抵抗激しく、特に特攻により大きな被害を受け、本人も戦死の危険性もあったほどであった。ここで任務途中であったがハルゼー提督と交代となった。
戦後
戦後はダグラス・マッカーサーに面会したが、彼には好意的であった。ミズーリでの降伏文書調印に招待されるもこれは拒否した。
日本国内に駐屯し進駐軍の支援行為を行った。
その後1945年11月に太平洋艦隊司令長官に就任するもこれを人に譲り海軍大学校校長となるも1948年に退役。
その後悠々自適の生活を送っていたものの、アメリカ合衆国大統領であったハリー・S・トルーマンの要請により駐フィリピン大使となる。後に大統領となるドワイト・アイゼンハワーの慰留もあり、1952年から1955年まで務めた。
再び悠々自適の生活に戻るが、1966年以降体調を悪くし、それと長男を失ったことにより最後は精神をおかしくして1969年12月13日に死去。
そのほか
- ハルゼーいわく「駆逐艦の艦長としてきわめて優れた技能を持っているだけでなく、その性格ならびに頭脳においても、きわめて優れた人物である」
- 進駐軍の支援には慰安婦管理も管内の軍医の発案で行われたものの、従軍牧師に本国にチクられたため彼により直ちに中止された。
- 駆逐艦「オズボーン」艦長を拝命の際、前艦長はハルゼーであったため、交代の際乗組員に「新しい艦長は良い艦長になるから生真面目さだけで誤解しないよう」いい含めてあり、スムースに仕事ができたといわれる。
- ニミッツ大将の参謀長となった際、ニミッツの官舎に居候しており、公私に渡って行動を共にしており、彼の信任を得ている。
- ミッドウェー海戦以後、機動部隊指揮官として有名となったが、本人はかって戦艦部隊指揮官を希望したように砲撃戦に執着があったようであり、トラック空襲の折りには艦隊から戦艦二隻、巡洋艦二隻、駆逐艦四隻からなる艦隊を抽出して直接指揮をとりトラック島を脱出する日本艦隊への攻撃を行っている。また戦艦大和の沖縄特攻に対しては当初はモートン・デヨ少将の戦艦部隊に迎撃させようとしていた。機動部隊指揮官に限定してではあるが、その指揮レベルは低いと評す声もあるという。