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ジョン・マルコム・ソープ・フレミング・チャーチル(John Malcolm Thorpe Fleming Churchill)
イギリス陸軍の軍人。ファイアーエムブレムの世界から迷いこんできた男かも知れない。
渾名は「ファイティング・ジャック」、「マッド・ジャック」。
経歴
1906年9月16日、セイロン植民地(現・スリランカ)で誕生。父アレクは公務員。その後すぐ、一家でイングランドのサリー州へ戻る。
1910年、父が香港の公共事業監督を命ぜられ、香港に移る。
1917年、イングランドへ戻る。アーチェリーやバグパイプに熱中。
1924年、イギリス映画「バグダッドの盗賊」(監督:ラオール・ウォルシュ)に出演。
1926年、士官学校を卒業、ビルマのマンチェスター連隊で軍務に就く。この頃はオートバイが趣味で、無線を習うために2,000km離れたカルカッタ(インド)まで行ったりした。
1936年、陸軍を退役しナイロビ(ケニア)で新聞編集者やモデルの仕事をした。
1938年、イギリス映画「ア・ヤンク・アット・オックスフォード」(監督:ジャック・コンウェイ)に出演。
「オールダーショット軍楽隊行進」のバグパイプ競技会で2位に入賞。
1939年、オスロ(ノルウェー)でのアーチェリー世界大会にイギリス代表として出場。
9月、第二次世界大戦が始まり、軍に復帰。
マンチェスター連隊が配属されたのはドーバー海峡に近いリシュブール(フランス)で、宣戦布告されながら全く戦闘が無い「奇妙な戦争」の期間であった。つまらないのでフィンランド義勇軍に志願するが、義勇軍自体が中止になった。
暇なのでバグパイプの練習に没頭していたところ、1940年5月10日、ドイツ軍がベルギーを通ってフランスに侵攻を始めた。
イギリス軍のダンケルク撤退までの間に彼の大隊は大きな戦果を残したが、彼自身弓矢を使ってドイツ軍の下士官を倒し、第二次世界大戦中唯一の「弓矢によるスコア」を記録した。
イングランドへ撤退後、新設のコマンド部隊に志願。
1941年12月27日、ボクセイ島(ノルウェー)のドイツ軍駐屯部隊を奇襲する「アーチェリー作戦」に参加し、上陸に際しバグパイプを演奏した後、ドイツ軍に手榴弾を投げつけた。突撃は成功し、武功十字章を授章。
1943年7月10日、シチリア島への上陸作戦(ハスキー作戦)で東岸のカターニアに上陸した際にはコマンド第2部隊長。クレイモア、ロングボウ、バグパイプは彼の代名詞となっていた。
9月9日、イタリア西岸のサレルノへの上陸作戦(アヴァランチ作戦)では42名のドイツ軍捕虜を獲得し、ナポレオン戦争時代に倣って負傷兵を乗せた手押し車を捕虜に引かせた。殊勲十字章を授章。
1944年5月、対独パルチザンとコマンド(40人)を率いてブラチ島(ユーゴスラビア)に上陸。ドイツ軍の激しい砲撃にパルチザンが脱落し、コマンド部隊のみで翌日突撃を敢行。バグパイプで部隊を指揮中、手榴弾で吹き飛ばされ意識を失って捕虜となり、ベルリン北郊のザクセンハウゼン強制収容所に送られた。
9月、収容所仲間と共に脱走し、バルト海を目指すが、ロストックで捕まる。
1945年4月、親衛隊が警備するヴィッラバッサ(イタリア)の収容所へ移送される。親衛隊に処刑されそうになるが、ドイツ陸軍のヴィヒャルト・フォン・アルフェンスレーベンの策で親衛隊が逃げ出し、捕虜は解放された。
ヴェローナ(イタリア)を目指して歩き、アメリカ軍に救助される。
イギリス軍に復帰後ビルマ戦線に転属するが、インドに到着する頃には日本も降伏したため、彼は「アメ公が余計な真似をしなければあと10年は戦争ができた!」と嘆いた。
戦後、空挺兵の資格を取り、スコットランドのシーフォース・ハイランダーズに転籍。パレスチナに配属される。
1952年、アメリカ映画「黒騎士」(監督:リチャード・ソープ)に出演。
オーストラリアで教官を務めていた時に、サーフィンに熱中するようになった。
帰国後、イギリスは外洋でのサーフィンがむずかしいため、セヴァーン川(イギリス)の海嘯(河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象)を利用したサーフィンを始めた。
1959年、陸軍を退役。殊勲十字章2つを授章。
1996年3月8日、サリー州で死去。享年89歳。
座右の銘
「士官たるもの、剣を持たずして戦場に赴くべきではない」