概要
この一揆は島原半島および天草諸島で連動して発生したため、「天草・島原の一揆」「天草・島原の乱」とも呼ばれている。
一般的にはキリシタン(カトリック信徒)による反乱と思われているが、実際にはキリシタンではない農民や浪人も大勢加わり、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主・寺沢堅高によって敷かれた圧政の是正を求めた一揆であった。
背景
日本においては戦国時代が終わり江戸幕府による天下泰平の江戸時代が始まった。
戦国時代には海外貿易を円滑に進めることを考えた大名達、いわゆるキリシタン大名などが領内でのキリスト教の宣教活動を認めるなどしていたため、各地には多くのキリシタン集落が生まれており、豊臣秀吉による統一後も海外貿易や宣教活動の公認はしばらく続いていたが、秀吉によって突如キリスト教の布教は禁じられた。
信仰禁止に至るまでの理由は諸説あり、キリスト教の布教を名目としてスペイン・ポルトガルから送られていた宣教師の中に尖兵(スパイ)が存在したらしいこと、一部のキリシタン勢力が既存の寺社仏閣に対する破壊活動を行い、仏教勢力を攻撃していたこと等が挙げられている。さらに、2代将軍・徳川秀忠の頃からは、幕府はいわゆる鎖国体制を強め、キリスト教を危険思想として禁教令が出された。
一方九州では海外との交流も多く、キリシタン大名が支配した地域も多かったためにキリシタンがとくに多く、取り締まりの拷問もエスカレートしていき弾圧は厳しかったといわれる。
そんな中で肥前唐津藩主の寺沢堅高(唐津藩2代藩主、寺沢広高のあとを継ぎ藩主となり、キリシタン弾圧および厳密な取立てを継続させたためこの状況が起こる)と、島原藩主の松倉勝家(島原藩2代藩主、父・松倉重政が過剰に石高を設定しキリシタンを弾圧していたのを継続し、石高に見合わない城(島原城)を築いたこともあって、この状態を引き起こす、なお江戸時代、大名として切腹ではなく斬首された唯一の人物)は激しいキリシタン弾圧をしており、また、農民への度重なる年貢や税金を取立て(これは双方ともに石高を過剰に見積もっていたためである)、双方とも未納者には過酷な拷問や処刑がなされていた。また各地でなされた改易や移封で浪人も増加しており、百姓たちと共に多くの浪人も藩や幕府への不満を強めていた。
発生
その中で、飢饉が発生、旧小西家家臣の益田家(天草の豪族であり、益田甚兵衛などを排出した)の青年・天草四郎(本名:益田時貞)がキリシタンとしてカリスマ的人気を集め、寛永14年10月25日(1637年12月11日)、彼を指導者に島原の民衆が決起。鎮圧しようとした島原藩を圧倒(一時島原城を包囲した)し、それに天草の民衆も呼応(天草支配の拠点であった富岡城を落城寸前まで追い込む)して決起して一揆勢は増加。
幕府軍の侵攻を見込んだ島原と天草の一揆勢は廃城となっていた有馬家の居城・原城跡で合流し、この城を修復し籠城。幕府側の見込みでは約37000人に膨れ上がったとされる。
乱を重く見た幕府は本格的な討伐隊を派遣したが、戦意の高い一揆勢は幕府軍すら圧倒し、当初派遣した幕府側の総大将の板倉重昌(下総関宿藩主、京都所司代。この戦いにおいては大名としては力のない人物であったため諸大名の統率が取れなかったとされる)は戦死してしまう。
幕府の対処
そこで幕府は戦後処理担当として派遣されていた伊豆守・松平信綱(武蔵国忍藩主、老中。徳川家康の家臣の子として生まれ、松平氏の養子となる。智将として恐れられ知恵伊豆と呼ばれた)を新たに総大将に任命。信綱は忍者を使って城内を調べ、戦国乱世を知る老将の立花宗茂や水野勝成と協議して兵糧攻めに出た。一揆勢が欧州特にポルトガルが助けに来てくれると信じている点から、信綱は年が明けた頃にオランダに依頼して原城にオランダ船(一説によるとこのときポルトガルの旗を揚げていたとされる)より艦砲射撃をさせた。異国の助けについて批判はあったものの一揆勢への心理作戦は効果が大きかったといわれる。矢文を使って城内との内通者も作り、内部からの切り崩し工作も図った。
寛永15年2月28日、ついに総攻撃が開始され、疲弊した一揆勢は総崩れとなり、天草四郎ら上層部も討ち取られ、城内にいた一揆勢は内通者1名を除きすべて斬られ、一揆は鎮圧された。ただし、実際には幕府軍の総攻撃の際にも、一揆勢の中にも脱出に成功した者や、幕府軍に投降し殺されずに済んだ者も決して少なくはなかったとする見方もある。
戦後処理
乱後に信綱は堅高と勝家による領民への過酷な税や年貢・拷問こそが一揆の根本的原因であると幕府に報告した。
そして幕府は一揆の責任をとらせた、勝家は島原藩改易、後に斬首され、堅高は天草を没収して幕府直轄領である天領(ただし唐津はそのまま)とし、事件の10年後精神を病んで自害(これにより唐津藩は後継者なしのため改易)した。
その後天草の石高は4万石とそのままであったものの、後に代官であった鈴木重成が表文を残して自刃したこともあり半分に下げられた。
またこの後キリシタンの動きは地に潜るようになり、隠れキリシタンとして幕末までその姿を見せないようになった。幕府はキリスト教の脅威と海外の存在感を脅威として認識する契機となり、鎖国体制を本格化させていった。
さらに一国一城令により破却した城に関してそれまで以上に厳密に破壊されるようになった。
宗教戦争の実際
島原の乱を宗教戦争や宗教弾圧と見なしたり、「幕府対キリシタン」の構図で見ることは多いものの、自身の失政を認めない松倉勝家がキリシタンが主導した暴動と主張し、幕府はキリシタン弾圧の口実に使ったことからキリシタンの暴動という見方が定着したとされる。
ところが実際には宗教的面は薄く、どちらかと言えば経済是正を叫んだ暴動であった。一揆勢は天草四郎など一部のキリシタンを除いて、そのほとんどはキリシタンではない百姓および浪人などの旧支配層が生き残りのために決起していた。強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかったという。
このように、宗教戦争以外の側面が濃いことから、現在のカトリック教会は天草四郎や乱の関連人物を殉教者としては認めていない。
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