概要
幕府が元和3年(1617)に、それまで江戸の市中各所に散在していた遊女屋を、日本橋葺屋町(現在の中央区日本橋人形町付近)に集め、塀で囲って隔離し、公認したことが始まりである。
当時はヨシ(アシ)の茂る地で「葭原」と書いたが、後に縁起のよい字にかえて「吉原」と称した。
明暦3年(1657)の大火で焼けたため浅草に移された。
前者を元吉原といい、後者を新吉原という。
元々関ヶ原の戦い以降行き所を失った武家・豪商の寡婦などの女性達が身をやつした場所であるため、西洋でいう「娼婦」「売春婦」とは一線を画した格の高さがあった。
時が経てどもブランドを維持するために歌や踊りだけでなく、読み書きから俳句・茶道・華道・香道・書道など、果ては古典に至るまで、高い教養を仕込まれた。
これは遊女のみならず、客も大名や旗本、豪商といった人々であったため、高度な教養を備えていなければならなかったためである。
また教養を身につけていると、正式な妻に迎え入れられることもある。身請けしてもらって「いいところの家」に嫁ぐ、いわゆる『玉の輿』が行われていたりもした。
西洋では、娼婦(売春婦)は身分は低く、卑しい職業・屈辱的な立場に置かれた人と見られていたが、日本においては決してそのようなものではなく、生活手段として市民権を得ており、そのため幕末に来日した外国人は、日本の娼婦の立場が西洋とは全く異なっていることに驚いたという。
明治元年に来日したオーストリアの外交官であるアレクサンダー・F・ヒューブナーは日本人の娼婦への認識を理解するのに時間がかかったという。
ただし日本にも「夜鷹」という最底辺の売春婦は存在する他、新吉原以降は女性の生活斡旋所としての必然性にも薄れ、単なる歓楽街として格を落としていった面も存在する。
また西洋にも高級娼婦が花魁・太夫と同じく教養や礼儀が必要とされる。
ポンパドゥール夫人など、国政に携わる公妾として認められるなど、大きな転身を遂げた女性も多く、身受け後の伸びしろはむしろ西洋の方が大きいかもしれない。
明治以降も娼妓(公娼)として運営されていたが、昭和32年(1957)4月1日に売春防止法が施行されたことによって、歴史にひとまず幕を下ろし、表向きは高級ソープランドを始めとする性風俗店や、連れ込み宿(いわゆるラブホテル)に変身。
現在の吉原は都内最大の風俗街へと変化している。
別名・表記揺れ
関連タグ
妓楼 / 遊女屋 / 傾城屋 張見世 置屋 茶屋 / 引手茶屋