アンドレ・ザ・ジャイアント
あんどれざじゃいあんと
概要と呼ぶには巨大すぎる!
本名:アンドレ・ルネ・ルシモフorロシモフ(André René Roussimoff)。フランス・グルノーブル出身(但し、フランス北中部のクロミエという町が出生地)。全盛期は身長が223cm、体重が236kgという文字通り超巨漢で鳴らした。
圧倒的な体格もさる事ながら、それに奢らない絶妙なプロレステクニックと、高い身体能力も持ち合わせていた。
ちなみに「東洋の巨人」と言われた、ジャイアント馬場より14cmもデカイ。
ただし、この公式データには異論もあり、実際の身長はさらに高かったのではないか? とも囁かれている。
新日本プロレスのレフェリーで、外国人レスラーの相談役でもあったミスター高橋氏の証言によれば、とある宿泊先のホテルで、アンドレの頭が天井の照明に当たって割ってしまった。状況を確認しに来たホテルのマネージャーは割れた照明を見上げて、「アレに当たったんですか? 2m40cmはありますよ」と、文字通りのびっくり仰天だったという。
アンドレは身体の成長が止まらない一種の病(巨人症)を患っていたと言われ、身長が公式記録より伸び続けていた可能性は十分にあり得る。
(因みに出生時の重さは13ポンド《5897g》とその巨人症の前兆が窺え、そこから10代までは平均的な身長であったものの10代を過ぎて間も無く、急激に成長。14歳の時には6ft1inch《約183㎝》、213lb《97㎏》を記録、その翌年には身長は6ft7inch《2m》を越えたという。)
生き様と呼んだら人口の辻褄が合わない!
第二次世界大戦が終結して間もない1946年5月19日にブルガリア人の父ボリス・ルシモフとポーランド人の母マリアンヌ・ルシモフの三男として生まれた(兄妹は5人いる)。父親と母親は共に東欧からフランスに移住してきたスラブ系移民だったのである(前述の出生地クロミエもまた、スラブ系の文化遺産が多く残っている事でも知られている)。
元々はフランスでもいい所のお坊ちゃん(実家は広大な農場を所持していた農家であった)で、少年時代からサッカー、ボクシング、レスリング、クリケット等のスポーツに打ち込んでいた。因みに運動神経が優れており、体重が増加する頃の前まではバック転が出来たり、体重が増えてからも水泳ではクロールで速く泳ぐ事が出来たという。
学業でも優等生であったが、14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業(日本とは異なり、フランスでは11歳から14歳までの4年間が中学校での就学年数《ひいては義務教育も14歳まで》である)した後、「農家出身者の自分には高等教育は必要ではない」と思った為か高校へは進学せず、数年間実家の農場で働いたり、木工の見習いに励んだり、ベーラー(干し草や藁を梱包する為の農業機械)専用エンジンの製造工場で働いていたという。因みに彼の兄のジャック・ルシモフの証言によれば、アンドレは「一人で3人程の仕事が出来た」という。その後、パリに移住してからは家具運送会社に勤務している所を「マット界の魔術師(日本での異名)」ことエドワード・カーペンティアにスカウトされ、プロレスの世界に入る。
(因みに漫画『プロレススーパースター列伝』等にある、プロレスの世界に入る前は樵として斧を振るって仕事に勤しんでいた所をカーペンティアに『発見』され、そのままスカウトされたという話は有名だが、フィクションである。但し、カーペンティア自身が無名の頃のアンドレに目を掛けてサポートをしていたのは事実である。)
18歳の時にパリでデビューした、南アフリカでデビュー戦を行ったなどフランス時代の経歴についてはよく判っていない(因みに英文版Wikipediaによれば、地元パリのプロレスプロモーターであるオベール・ラゲアの元で夜は練習に打ち込み、日中は引っ越し業者として働いて生活費を稼いでいたといわれている)。デビュー当時から来日直前までは「アンドレ・ザ・ブッチャー・ロシモフ」や「ジェアン・フェレ(『巨人フェレ《Géant Ferré/Giant Ferré》』という意味であり、後述の『ジャン・フェレ《Jean Ferré》』とは異なる)」、「モンスター・エッフェルタワー」と、幾つかの名義で活動していたが、後述の国際プロレスに来日した際には国際プロレスの社長であり、元プロレスラーの吉原功から「モンスター・ロシモフ」と命名され、この名前で国際プロレスのリングに上がっていた。
1970年にカナダ・モントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレの名で活躍した。
この頃、国際プロレスに初来日を果たす(参戦)。また、「帝王」の異名を持ち、AWAの総帥であるバーン・ガニアと出会い、北米進出の切っ掛けを掴んだ他、そのガニアから更なる多くのレスリングテクニックを学び、後の「圧倒的な体格もさる事ながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつける事が出来る巨人レスラー」としての基盤を固めてゆく事になる。
1973年に、ブッキング権がガニアからWWWF(現WWE)のプロモーター、ビンス・マクマホン・シニアに渡り、契約。同時にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名する。
しかしWWWFとは専属契約をした訳ではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWA・AWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的かつ短期参戦でサーキットして回る様になる(所謂「レンタル移籍」)。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。そのお陰か、この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレは全米の有名選手達と闘った。また各プロレス協会から一定の契約料を得た為、1974年のギネスブックでは「年俸世界一《40万ドル》のプロレスラー」としてアンドレは掲載された。
尚、1974年当時は1ドル=300円であり、当時の日本円に換算すると1憶2000万円(現在の金額に換算すると推定で10億~12億円)をアンドレは稼いだ事になる。また、その当時野球(特にMLB)やサッカー等のスポーツでも億単位程の年俸を稼いだ選手は滅多にいなかったと言われている。
更にその同年、WWWFと提携していた新日本プロレスに本格参戦。新日本プロレス創設者であり、当時社長であったアントニオ猪木との抗争も始まった。1974年3月15日に岡山武道館で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時アンドレのマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、アンドレがジャイアント・プレスでフォール勝ちを収めた。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着。
更に猪木がウィレム・ルスカ(柔道家で、ミュンヘン五輪柔道無差別級の金メダリスト)や当時の世界ヘビー級王者であるボクサーのモハメド・アリとの対戦で異種格闘技戦をスタートさせた1976年の10月7日には、蔵前国技館にて「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた両者のシングルマッチが行われた(この時はアンドレの額が割れて流血が止まらなかった為、ドクターストップで猪木の勝利となった)。
因みにアンドレは1976年6月26日(アントニオ猪木とモハメド・アリの一戦が日本武道館で行われた日)にWWWF主催興行である「ショーダウン・アット・シェイ」(1972年から1980年までニューヨークのシェイ・スタジアムで行われたプロレスや異種格闘技のビッグマッチ)の一戦で世界ヘビー級ボクサーのチャック・ウェプナー(映画『ロッキー』の主人公・ロッキー・バルボアのモデルとなった人物)と異種格闘技戦対決を行い、1R3分15秒で場外に投げ落としてリングアウト勝利を収めている。
猪木の保持していたNWFヘビー級王座には、1974年12月15日にブラジル・サンパウロのコリンチャンス・スタジアム、1977年6月1日に名古屋の愛知県体育館にて、2度にわたって挑戦。猪木が坂口征二とのコンビで戴冠していたNWA北米タッグ王座にも、ロベルト・ソト、トニー・チャールズ、ザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)など、パートナーを代えて3回挑戦している。
また新日本参戦して間もない頃は、それと同時に愛着のあった国際プロレスにも特別参加した事がある(またこの時期に、ラッシャー木村が当時保持していたIWA世界ヘビー級王座決定戦《1979年7月》に挑戦している)。また、新日参戦時期には伝説のスタン・ハンセンとの「田園コロシアムの一騎打ち」を抜きにしては語れない。
因みに新日本プロレスに参戦していた頃は1981年12月10日に第2回MSGタッグ・リーグ戦の優勝決定戦で、同じくフランス出身のレスラーであり、主に「参謀役」として活躍したレネ・グレイをパートナーに大阪府立体育館にて猪木&藤波辰巳を破り、優勝。1982年4月1日には蔵前国技館にて第5回MSGシリーズの優勝決定戦でキラー・カーンを下し、制覇している(新日本のシングルのリーグ戦における外国人選手の優勝はこれが初めて)。
新日本プロレス参戦時のアンドレは、前述のジャイアント馬場をも凌ぐ巨体と圧倒的な強さから、専らヒールの扱いで、本人もそれを受け入れ、かつ意識してファンを遠ざけていた(※)が、一方で一種の“愛嬌”も持ち合わせており、登場時に花道以外での通路から出て来てファンを驚かせたり、後に“世界最大のマスクマン”、ジャイアント・マシーンをノリノリで演じている(話を持ちかけたミスター高橋氏は、プライドの高いアンドレ故に断られる事を覚悟していたが、アンドレがマスクを見るなり大喜びした上に早速被って『どうだい、ピーター(ミスター高橋の愛称)? 似合うかな?』とポーズを取る等、あまりのノリの良さに、逆に面食らったとか。因みにこの時のマスクはバイクのヘルメットから採寸を取った為にアンドレの頭とフィットしていなかったが、後にアンドレ本人の承諾を得てアンドレの頭部から採寸を取り、改めて作成したマスクを被ってリングに上がっている)。
(※)(また「日本人嫌い」というイメージが損なわれない様に新日本時代の中盤頃からはサイン等のファンサービスはほとんど行わず《プライベートでもファンがサインを求めに来ると『Get awey!!』『Get out!!』(どちらも『出て行け!!』)と、また試合中にファンがアンドレに応援すると喜ぶ処か逆に『Shut Up!!(黙れ!!)』と怒鳴ったり、マスコミの取材に応じる事も少なかった上に、挨拶の際に渡した名刺の枚数も数えられる程であったという。但し、元々は親日家であり、国際プロレス時代や初期の新日本時代には気さくにファンとの撮影に応じたり、新日本プロレスでの活動が終わりに差し掛かった頃、ミスター高橋にアンドレ自身のサインと手形、足形をプリントしたシャツをファンの為に販売する等のビジネスを持ち掛けたり《ミスター高橋によるとこのビジネスは実現はしておらず、原本となるアンドレのサインや手形足型の色紙はミスター高橋の自宅に仕舞いっ放しになっているとの事》、後述する全日本プロレス時代には馬場とタッグを組んだりする機会が多い為に自然とベビーフェイスに転じ、『アンドレコール』が起きれば笑顔で応じたり、コールの際にはファンに向けて二本指を立ててアピール、花束贈呈の際は受け取ると即座にブーケトスの様に後方の観客席に向けて花束を投げてプレゼントする等の計らいを見せる様になった。)
1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。またアメリカではアンドレは絶対的なベビーフェイスの存在であったが、1987年にヒールターンして長く抗争を続けていたボビー・ヒーナン率いる「ヒーナン・ファミリー」に加わり、第3回レッスルマニアでは嘗ての盟友だったハルク・ホーガンと初めてWWF(WWE)世界ヘビー級王座を賭け、激突した(但し、ホーガンがまだWWFに入って暫くはヒールであった頃にもアンドレは《前述のショーダウン・アット・シェイ(1980年8月9日)を含めて》アメリカ、日本等でもホーガンと数戦交えている)(※)。
因みにこの時のレッスルマニアでは9万3173人もの観客動員数を記録(後に2010年にカウボーイズ・スタジアムにて行われたNBAオールスターによる10万8713人という記録に更新されるまで、世界のインドア・スポーツのイベントにおける過去最高の観客動員数であった)。普段は滅多に自慢等をしないアンドレはこの観客動員数を関係者から聞いた時、「ローリング・ストーンズのコンサートを超えたな。」と口にしたという。
そして第3回レッスルマニア以降もホーガンとはスチールケージマッチ等で対戦したり、デビアスと前述の「メガ・バックス」コンビでホーガンとランディ・サベージがコンビを組んだ「メガ・パワーズ」のタッグ戦でも干戈を交えている。
(※)結果としては前半にホーガンをほぼ一方的に攻めるものの、後半から「ハルク・アップ」を見せたホーガンに逆襲され、ボディスラムで投げられた上にとどめのランニング・レッグドロップをまともに受けてアメリカでは史上初のピンフォールを奪われてしまったが、翌1988年2月5日の"The Main Event"でもホーガンと再戦。結果としてはまたしてもホーガンからランニング・レッグドロップからのピンフォール負け……、と思いきや当時「メガ・バックス」として組んでいた「ミリオンダラー・マン」ことテッド・デビアスと黒人ボディガードの「バージル」ことマイク・ジョーンズがレフェリーと口論に持ち込んでカウント妨害を働き、フォールを解いたホーガンがレフェリーに『カウントを取れ!!』と詰め寄っている隙にアンドレが逆襲。ヘッドバッドを加え、フロントネック・チャンスリードロップを仕掛けて逆にホーガンからピンフォールを奪い(因みに単に身体を覆い被せるだけの体固めでフォールを奪うのが大抵だが、この時のアンドレは本気でガッチリと体固めを仕掛け、ホーガンからフォールを奪いにかかっていた)、晴れてWWF世界ヘビー級王座に輝いた(※2)。
(※2)尚、この直後にアンドレはデビアスにベルトを売却しており(一応はこの時点でデビアスにWWF世界ヘビー級王座が移行されている扱いだが、当然正式には認められていない。但し、一方でアンドレのWWF世界ヘビー級王座は正式に認められている)、当時のWWF会長であるジャック・タニーがデビアスのWWF世界ヘビー級王座を無効として、防衛戦を一度も行われる事無くベルトを剥奪されている。また、デビアスは正式にはWWF⇒WWE世界ヘビー級王座には1度も輝いてはいないものの、当時「IRS」と名乗っていたマイク・ロトンドとの『マネー・インコーポレーテッド』コンビでWWE世界タッグ王座に3度輝いている)。
しかし、この頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。加えてハルク・ホーガンの後継者として期待されているアルティメット・ウォリアーの売り出しとしてリングに上がっては連敗を重ねたり、「蛇嫌い」という設定が加えられてジェイク・”ザ・スネーク”ロバーツとの抗争を繰り広げる等が主となった(但しその間にも「ヒーナン・ファミリー」の一人である「南海の暴君」の異名を持つキング・ハク《元力士として、朝日山部屋に所属して『福ノ島』という四股名で大相撲の土俵に上がった事がある、トンガ出身のレスラー。大相撲時代の最高位は幕下27枚目だが、これからという時に朝日山親方《元前頭2枚目の二瀬山勝語》の死去を切っ掛けに起こった部屋騒動《トンガ人力士廃業騒動》を機に廃業している》とのコンビ「ザ・コロッサル・コネクション」で「ザ・デモリッション」(アックス《正体はビル・イーディー。日本では『流星仮面』の異名を持つ覆面レスラー『マスクド・スーパースター』として生涯の殆どのリングに上がった事で知られている人物。また、『スーパー・マシン』としてマシン軍団に入り、『ジャイアント・マシン』の頃のアンドレとタッグを組んでいた事でも有名》とスマッシュ《正体はバリー・ダーソウ。後に『リポマン』というヒールレスラーとしても一世を風靡した人物》)との試合(1989年12月13日)に勝利して、WWF世界タッグ王座を獲得している)。
そして体調不良のため1990年にWWFを退団するが、その直前にWWF、新日本、全日本の共同開催で行われた「日米レスリングサミット」でジャイアント馬場と出会い(因みにアンドレと馬場は過去に1980年にはハワイで、更には1982年にフロリダでもバトルロイヤルにて遭遇しており、特に後者は日本のマスコミから大々的に報道されている)、タッグを組んでWWF世界タッグ王座に返り咲いていた(※)ザ・デモリッションと対戦して勝利を挙げる(因みに試合後、アンドレは『馬場さんとタッグを組むのは楽しい』とコメントしている)。また、この日米レスリングサミットを機にアンドレは全日本プロレスに移籍。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍。またその全日本では前述の田園コロシアムでの一戦等を交えたスタン・ハンセンと、国際プロレス以来の親友やライバルだったマイティ井上、ラッシャー木村との再会を果たし、共に喜びを分かち合った。
(※)1990年4月1日の第4回レッスルマニアでザ・コロッサル・コネクションから奪回。この試合後、アンドレがリングロープに固定されて動けなくなり、キング・ハクが狙い撃ちにされて負けた事に憤慨したボビー・ヒーナンがアンドレを激しく非難。言い訳に一切耳を貸さず、一方的に捲し立てるヒーナンの態度に怒ったアンドレがヒーナンを叩きのめし、「ヒーナン・ファミリー」から脱退している(加えて仲間割れで襲ってきたキング・ハクもアンドレは返り討ちにしている)。その経緯もあってアンドレとザ・デモリッションには少なからず因縁がある。
1990年と1991年に世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場と共に出場し、1990年はトップを走っていたもののドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの兄弟コンビ「ザ・ファンクス」との一戦の際に馬場が場外に転落した際、左大腿骨を亀裂骨折した為にリタイヤ。結果は3位に終わったものの、1991年には常時出場して準優勝を果たしている。しかしコンディションが更に悪化した為、1992年からは馬場やラッシャー木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との「明るく楽しいプロレス」が中心となった。しかし、10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvsジャンボ鶴田&アンドレ&テリー・ゴディ戦)では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。最早トップロープを跨ぐ事が出来なくなる程、アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせる等、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。
全日本、ひいては日本での最後の試合は1992年12月4日日本武道館、馬場・アンドレ・ラッシャー木村のトリオで六人タッグマッチ(vs大熊元司&永源遙&渕正信)で、アンドレが大熊をロープを持ち支えてのヒップドロップでフォールした。奇しくもこの試合は、フォールされた大熊の最後の試合でもあった(大熊はこの試合から23日後の12月27日に、現役のまま急性腎不全の為に逝去)。
父親の葬儀へ出席するために帰国していた翌1993年1月27日、急性心不全(鬱血性心不全)の為にパリのホテルの自室で死去(享年46歳)。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)と、後年に殆どトレーニングしなかった事が原因と言われている(因みに酒の場合は好んで飲んでいた他、前述の体重増加による膝と腰の痛みを紛らわせる為でもあったという)。無論、巨体ゆえの心臓への長年の負担も、命を縮める一因となったのは間違いない。
遺体はアンドレ自身の遺言に従い、荼毘に付された。埋葬が一般的な欧米人としては珍しい例であった。弁護士に渡した遺書には「死後48時間以内の火葬」が指示されていたが、パリにはアンドレの巨体を荼毘に付せる設備がなく、やむなくそのままアメリカに移送された(因みに荼毘に付された後、アンドレの遺骨は普通の骨壺には収まり切れず、大型の段ボール箱で漸く収まったと言われている)。またアンドレの遺灰(此方も何と重さは7.1㎏にもなったという)は、彼が晩年プライベートで多くの動物達と過ごす為に買い取った、ノースカロライナ州エラーブにある広大な牧場に散布された。
後に生前の功績を称え、WWE殿堂入りの第一号レスラーとなった。
世界8番目の得意技
ジャイアント・プレス
一般的にいうところのボディプレスなのだが、アンドレの巨体が全体重をかけて相手を押し潰す様は圧巻の一言。ここぞという時の決め技として使用され、実質アンドレ最大のフィニッシュ・ホールドといえる。ジャンプして見舞う時と、両膝を付いて相手に倒れこむ時の2通りがある。但し自身への負担が大きく、1982年頃から使う頻度が大きく減った。
ヒップドロップ
ヒップドロップといえば繋ぎ技として扱われる事が多いが、プロレス界においても突出した巨躯を誇ったアンドレが放つそれは、充分にフィニッシュ・ホールドとして通用する破壊力を持っていた。この体勢からフォールを狙う場合も多い。相手がタフかどうかで飛ぶ高さを決めており、「高く飛んだ相手はタフさを認めたものだ」とアンドレは語っている。
ヒッププッシュ
相手をコーナーに追い詰めた後、相手やコーナーに背中を向ける形で覆い被さり、勢いを付けて相手に尻を突き当てる。コーナーとアンドレの巨体に挟まれる為、相手は逃げ場がなく、また受けるダメージも大きい。タッグマッチの際は、相手を2〜3人まとめてコーナーに追い詰め、この技を繰り出す事もある。またこの技を繰り出した後、相手をコーナーに押し付けたまま放屁して更に相手を苦しめる事もあったという。
フロント・ネックチャンスリー・ドロップ
相手の首を正面からロックし、後方へ反り投げる技。決して簡単な技ではなく、アンドレのレスリングセンスの高さが垣間見える。なお、第5回のMSGシリーズ優勝決定戦では、この技をフィニッシュに繰り出してキラー・カーンから、そして前述のWWF世界ヘビー級王座を賭けた一戦ではハルク・ホーガンからフォールを奪っている。
ハイアングル・ボディスラム
相手を高々と担ぎ上げ、勢いをつけてマットへ叩き付ける技。ずば抜けた長身から繰り出すため、ボディスラムとしては破格ともいえる威力を誇っていたが、体重が増加した1980年代中頃から使う頻度は減少していった。
エルボー・ドロップ
寝た状態の相手に向かって倒れこむ様に肘を落とす。体重が増加してからは使用頻度が減ったが、晩年の全日本プロレス登場時には馬場の十六文キックで倒れた相手に倒れ掛かるようにこの技を繰り出し、そのままフォールするのが大巨人コンビ定番のフィニッシュムーブだった。
カウンターキック
ジャイアント馬場の十六文キックに対抗して「十八文キック」と呼ばれていた。また、当時「ワールドプロレスリング」の実況であった古舘伊知郎は1983年頃から仏製対艦ミサイルのイメージからこの技を通称で「人間エグゾセミサイル」と呼んだ事もある(それまでは『ダイナマイトキック』とも呼んでいた)。
ネックハンギングツリー
相手の首を両手で捕らえ、その体勢から腕力で持ち上げる事で首を絞め上げる。その長身を生かしたリフトは驚異的な高さに達し、抜群の説得力を持つ技であった。
ツームストーン・パイルドライバー
来日前からの得意技であり、初期のフィニッシュ・ホールド。1972年にターザン・タイラーとの試合で使用した際、タイラーの首の骨を折ってしまってからは封印している(尚、正確にはタイラーの怪我は頸椎損傷だが、それでも医師からは『もうプロレスを続けるのは無理だろう』と言われたほど深刻であったという。後にタイラーは翌1973年にリハビリ等の甲斐あって奇跡的に復活を果たすが、往年の実力は遂に戻せないほど影響は大きかったという)。しかしドリル・ア・ホール・パイルドライバー(特に相手のタイツを掴んだ状態で繰り出す『バディ・オースチン式』のもの)は、エキサイトした余りアントニオ猪木やキラー・カーンに見舞った事がある。
ヘッドバット
「ジャイアント・ヘッドバット」とも呼ばれる頭突き。アンドレが放つ頭突きは、長身を生かして相手の脳天付近を狙うものであり、しばしば「二階からのヘッドバット」と称された。また、ジャンプすることでさらに落差を付けるバージョン、倒れている相手に対して頭から倒れ掛かるバージョンもあり、その場合は「ジャイアント・スクワッシュ」という技名で呼ばれた。
因みに当て損ねなのか、わざとなのかは不明だが、ヘッドバットを繰り出した際、やられた側ではなく、仕掛けたアンドレの方が痛がる事もあり、その場面が「アメトーーク」でもアンドレを紹介する際に放映された事がある(加えて前述の田園コロシアムの一戦でもその場面はしっかりと『ワールドプロレスリング』で放映されている)。
ベアハッグ
長い両腕を利用して、相手の胴を強烈に絞め上げる。お気に入りの技だったらしく、試合で度々使用していた。またその巨体ゆえ膝を付いた体勢で繰り出すこともあった。
ショルダー・ブロック
ショルダー・タックル。相手をコーナーに追い詰め、勢いよくダッシュして繰り出すか、またはヒッププッシュ同様、両手でセカンドロープを持って相手の逃げ場を封鎖して、肩口を相手のボディに突き当てる技。後者は体重が増加してから使用し始めた(タッグマッチの際には寺院の梵鐘を撞木で突き鳴らす感じで相方に腰を持ってもらい、引いて反動を付けて繰り出すこともあった)。ちなみに古舘伊知郎はこの技を別名で「人間圧殺刑」と呼んだことがある。
ジャイアント・ボンバー
ラリアット。ジャイアント・マシーン変身時、フィニッシュとして繰り出していた。坂口征二からフォールを奪い、若手のレスラーを失神させた事もある。また、田園コロシアムでの一戦では、マネージャーのアーノルド・スコーランから手渡されたサポーターの装着を許可しないミスター高橋に対して怒り、彼をロープに降った際にこの技を繰り出し、文字通りの病院送りにして反則負けになった。
クロー
ショルダークローやストマッククローなど、巨大な手で体の一部を鷲掴みにしていた。
ストンピング
所謂「踏み付け」。大抵のレスラーは蹴る様な踏み付けを仕掛ける事が多いが、アンドレの場合は片足、もしくは両足で相手の腹部か背中に乗る事が多く、主に体格が大柄の相手(ゴリラ・モンスーン、ハルク・ホーガン、キラー・カーン、オットー・ワンツ、マスクド・スーパースター、高野拳磁等)に仕掛けている。それでも見ている方にしてみれば、ずば抜けた体格のアンドレが相手の上に乗っている様は、まさに「拷問」そのものである。
アトミック・ドロップ
スタン・ハンセンやバグジー・マグロー等の巨漢を軽々とリフトアップしたこともある。落差がある事から一撃必殺の技ともなった。
ダブルアーム・フェイスバスター
アントニオ猪木戦で披露した技で現在でいうペディグリーに近い技。屈んだ相手の両手首を掴んで背中方向へ引っ張り上げ、体重を乗せて顔面から叩きつける。
弓矢固め
全盛期、特に新日本プロレスに参戦して間もない頃に使用した得意技で、アントニオ猪木等のレスラーを苦しめた事もある。かなり高等なテクニックを要する為、アンドレが非常に手強い事を印象付けた技とも云える。
アルゼンチン・バックブリーカー
国際プロレス時代にマイティ井上からギブアップを奪った事がある。
各種関節技
ヘッドロック、アームロック、レッグロック、トゥホールド等の関節技。特にアントニオ猪木戦で多く仕掛けているが、田園コロシアムでの一戦ではスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアット封じの為にアームロックを仕掛けている場面が多く見られる。
ジャイアントネルソン
見出し画面に掲載されている技がまさにそれ。座っている状態の相手の両腕を掴み、それを相手の首に巻き付けて締め上げる技。その際、片膝を相手の背中に当てて威力を増大させ、且つ逃げられない様にしている。新崎人生の「極楽固め」に似ているが、向こうの場合は相手が俯せの状態でキャメルクラッチの要領で仕掛けている辺りが相違点(加えて技の名前に『ネルソン』とあるが、通常のネルソンホールドは両肩、若しくは片方の肩関節と首関節を固め、抑え付けて痛め付けるのに対して此方は抑え付け、締め上げている所に大きな違いがある)。1974年の蔵前国技館で行われた「格闘技世界一決定戦」(見出し画面はこの時の一場面をモチーフにしている)で坂口征二をこの技で大いに苦しめた他、アントニオ猪木にも度々仕掛けている。
またこの「格闘技世界一決定戦」で解説を務めたプロレスラーの遠藤幸吉が、この技の命名者でもある。
また技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。両腕が塞がれているためアンドレは身動きが取れず、対戦相手がアンドレに向かっていくが逆にカウンターキックを見舞われてしまうのが一連の流れ。因みに、相手にカウンターキックを放った後、いとも簡単に両腕をロープから外す。タッグマッチではこれで身動きが取れない間にパートナーがフォールを奪われる、という流れになる。(※)
(※)2020年現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手グレート・カリ、ビッグ・ショーも、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元新日本プロレスのレフェリーであったミスター高橋は試しにそれを実践してみた事があるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。
人間エピソード山脈
- その巨体ゆえに投げ技をかけられる事はほとんど無かったが、ハルク・ホーガンやスタン・ハンセン、ハーリー・レイス、ローラン・ボック、エル・カネック、ブラックジャック・マリガン、ブッチャー・バション(『狂犬』の異名を持つマッドドッグ・バションの実弟)、ジャイアント・キマラ(初代の方で、主に『カマラ』のリングネームで知られている)、アルティメット・ウォリアー等のレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982年9月18日、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている)。日本人で成功したのはアントニオ猪木、長州力、ストロング小林(後に『ストロング金剛』としてもタレントで活躍)の3人のみである。アンドレをボディスラムで投げる事がレスラーのステイタスだった時期もあった。尚、ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。カール・ゴッチはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、これがスープレックス技でアンドレを投げた唯一の記録とされている(※)。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。新間寿の回想によると、猪木に投げられた時は「私はそこにはアンドレの思いやりがあったと思っている」との事 。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。
(※)因みに一本背負い気味の投げ技をも含めると、前述の田園コロシアムの一戦でハンセンに、1975年のテネシー州チャタヌーガで行われた試合でビッグ・バッド・ジョンに投げられた事になる。
- ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレは前述のヒッププッシュを繰り出す際(また、リングインの際)によく屁を放っていたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。キラー・カーンもアンドレの屁をヒッププッシュの際に受けた事があり、「形容し難い臭いだった」と述べている。これについては、朝日新聞2015年(平成27年)5月2日土曜日 beランキング、記憶に残る昭和の外国人レスラーの人気アンケートでアンドレは5位に入り、プロレス取材歴が半世紀におよぶ門馬忠雄が外国人レスラーの最高峰に推しているが「彼には異界から来た者のオーラがありました。驚いたのは来日するたび、身長も体重もでかくなっていたことです。 年の体重は280(キロ)を超えていたでしょう。ワインをケースごと飲み干し」というエピソードと共に「ゆで卵は一度に20個も食べるので、出す方も怪物じみていて、おならは鼻がひん曲がるほど臭かった」と語る。記事は「時には試合中でも暴音とともに放たれた悪臭は、リングサイドをも阿鼻叫喚の地獄に一変させる、凶器の最臭兵器となった」と締めくくっている。
- キラー・カーンによれば、引退した後にスタン・ハンセンやハルク・ホーガンと話した際、双方がアンドレは彼らをうまく持ち上げてくれたと証言し、アンドレには感謝しており、「あれほどのレスラーはもう出てこないだろう」と発言していた、とされる。キラー・カーン自身は「相手の良い所を出させてあげて試合を盛り上げる。一流中の一流」とコメントしている。
- マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった(但し、エキサイトするあまり、花束贈呈の女性をリングから引き摺り下ろした事もある)。
- マイティ井上とは海外遠征を含む、若手時代から親友の間柄であった。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名は『ジャン・フェレ』だ」と雑誌インタビューでは答えている(この名前はカナダに渡った頃のリングネームであり、本名ではない)。また井上はレスラーとしてのキャリアが初期の頃はフランス語は話せなかったものの、何故かアンドレの話す事だけは理解が出来、それが為にアンドレとは生涯に渡っての親友、ひいては全日本プロレス時代の良き話し相手になった。アンドレが新日本と提携していたWWFに転戦した後も親交は続き、国際へ特別参加した際も、井上は「WWFは大丈夫なのか? 怒られるだろ? ギャラも高いだろ?」と問い正したが、アンドレは「マクマホン・シニアの許可はもらった。ギャラは幾らでもいい」と答え、国際への特別参戦が実現した。井上と国際の吉原功社長がモントリオールを訪れた際には、日本での恩返しとして、アンドレが井上と吉原の食事代を負担したという。
- また井上によれば、アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、実際にはアンドレに内縁の妻がいた事、娘も一人いた事を明言している(フランスでは結婚手続きが煩雑であるが故に正式に結婚をせず、内縁で通したとの事)。また娘の名前は「ロビン・クリステンセン・ロシモフ」と言い、彼女はアンドレの遺産の相続人となった他、アンドレの伝記映画「André the Giant: Closer the Heaven」の制作にあたってアドバイザーの一人として参加している。
- 国際プロレス時代の縁から若松市政(後の将軍KYワカマツ)がジャイアント・マシーンのマネージャーに起用された。アンドレは若松に恩義を感じており、若松がニューヨークを訪問した際、高級レストランに招待し、更には「WWFでマネージャーとして登場するつもりはないか?」と勧誘した。
- 現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。