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北条早雲の編集履歴

2020-12-15 20:35:34 バージョン

北条早雲

ほうじょうそううん

北条早雲は、関東地方の戦国武将。正しくは伊勢盛時(いせ もりとき)。戦国時代の黎明期にその名を轟かせ、関東一円に強大な地盤を築いた時代の開拓者として知られる(1432年/1456年 - 1519年)。

概要

室町時代中後期(戦国時代初期)の武将。

平安時代末期、平清盛らを輩出した伊勢平氏の一流である伊勢氏の出で、戦国大名となった北条氏(後北条氏)の祖である。諱は盛時または長氏。通称は新九郎。出家後は「早雲庵宗瑞」と号した。


北条を名乗ったのは、子の氏綱からであり、「北条早雲」と呼ばれるようになったのも後世になってからである(真田信繁(幸村)や斎藤高政(一色義龍)のケースと同様)。存命中は前出の伊勢盛時や早雲庵宗瑞を名乗っており、そのため最近の歴史書では伊勢宗瑞という名で書いてあるものも増えてきている。


往年の通説では、素浪人から戦国大名にまでのし上がった下克上の雄として知られているが、近年では室町幕府の執政を務めていた伊勢氏の出身という、エリート街道にいたことが判明している。

つまり、成り上がり武士というよりは幕臣として活動する中で独立し、戦国大名となっていったと考えるのが正しいようだ。(関東の騒乱を憂えた幕府が、早雲に関東平定を命じたという説さえある)


戦に優れるほか、多くのを築城し、内政面でも幕臣時代に培った手腕を遺憾なく発揮して地盤固めに尽力した。とくに『早雲寺殿廿一個条』は分国法(戦国大名が制定した自領内の法規条文)の祖形と呼ばれ、多く大名がこれにならって分国法を考案していった。


前半生

永享4年(1432)年もしくは康正2年(1456年)、室町幕府申次衆・伊勢盛定の次男として備中荏原荘(現・岡山県井原市)に生を受ける。兄に貞興、弟に弥二郎(盛興とも)、姉妹に北川殿(駿河守護・今川義忠の正室)がいる。貞興の動向はほとんど不明で、盛時が初めて史料に現れる文明3年(1471年)6月2日付で署名した禁制(菩提寺・備中長谷宝泉寺境内での乱暴狼藉などを禁じた内容。井原市・法泉寺に現存)は、盛時が盛定の嫡男として出した文書と推測されている。従って、貞興が早世したか何らかの理由で、この時点で盛時が嫡男となっていたことになる。盛時は領国である荏原荘の経営に当たりつつ、父と同様に幕府にも出仕しており、在京の間には京都の大徳寺などで禅や軍学を学んでいた事もある。


文明13年(1483年)に9代将軍・足利義尚の申次衆に任ぜられ、さらに奉公衆となった長享元年(1487年)には、駿河へと下向し今川家の家督を代行していた小鹿範満を誅殺。今川家は先代当主の義忠の戦死後、その遺児で盛時の甥でもある龍王丸(後の今川氏親)と範満との間で深刻な家督争いが発生しており、これを調停するために盛時が下向し一度は和議を結んでいたという経緯があった。

盛時二度目の駿河下向は、この時に結ばれた「龍王丸が成人した後に家督を返す」という条件が反故にされた事を受けてのもので、この功績により伊豆国境に程近い興国寺城を所領として与えられ(居城については異説あり)、その後約20年に亘って氏親に仕えてゆく事となる。

また『今川記』によると、盛時は堀越公方・足利政知にも仕えていたとされ、前述の小鹿範満誅殺の一件も含め、政知の次男である香厳院清晃(後の足利義澄)の幕府将軍擁立の動きに関与していた可能性も指摘されている。


伊豆討入り~小田原城奪取

明応2年(1493年頃)から伊豆に攻め入る。自身の手勢に加え氏親からも兵を借り、海陸両方から次第に堀越公方の地位を奪い取った足利茶々丸や各地の国人を平定し、韮山城に拠る。

この一件には茶々丸及び山内上杉顕定と対立関係にあった扇谷上杉定正の手引きがあったという見方も強い一方、堀越公方には先代・政知の死後、素行不良から廃嫡されていた茶々丸が継母と異母弟を殺害して強引に跡目を継いだという背景がある。将軍・足利義遐(足利義澄)からすれば茶々丸は母と弟の仇である上に、幕府に対する謀叛でもあるため細川政元日野富子の命により、幕臣として出兵したという説もある。さらに、前述の通り盛時自身が政知の家臣でもあったことから、茶々丸のクーデターで直接被害に遭った可能性も指摘されている。

この伊豆侵攻により堀越公方を滅ぼすと、それまでの多数の公家や武士が競って収奪する複雑な中世の税制を改め、四公六民(一律税率40%)という簡素で軽い税を定めたとされる。領民の好感度を高めて伊豆の統一に貢献したばかりか、領国の中央集権化にも貢献して後の戦国大名や江戸幕府の模範になったともいう。出家し「早雲庵宗瑞」と号するようになったのもこの前後の事である(以降は早雲と表記)


明応4年(1495)年9月から文亀元年(1501年)3月までの間には、大森藤頼小田原城を攻略、以降早雲は関東進出を本格化させていく。この戦いでは、外交で藤頼の歓心を買いながら「箱根山での鹿狩りの為に領内に勢子を入れさせて欲しい」という口実で伏兵を送り込み、一気に小田原城を急襲して攻め落としたとの逸話が残されている。

従来、この小田原城奪取は協力関係にあった扇谷上杉氏内部の混乱に乗じての、早雲による関東への勢力拡大の一環と見られていた。しかし近年では当時の幕府将軍の地位を巡る、足利義澄と足利義材(義稙)間の抗争に加え義澄と茶々丸、細川と大内の争い、両上杉の対立、武田家の父子相剋などが重なった結果、足利義澄-細川政元-今川氏親-伊勢宗瑞-上杉定正-武田信昌ら義澄陣営と足利義材-大内政弘-畠山尚順-足利茶々丸-上杉顕定-武田信縄ら義材(反義澄)陣営による争いとなり、これと密接に絡んだ動きであった事が明らかにされている。伊豆討入り以来義澄陣営に属していた早雲が、義材陣営の山内上杉家に寝返った大森氏を、定正の依頼により討伐したものであると考えられている。

早雲亡き後、北条氏の本城となる小田原城だが、この時点ではあくまで支城の一つという位置付けに過ぎず、早雲自身は終生韮山城を居城としている。


その間今川の武将としても引き続き活動しており、明応年間から文亀年間にかけて遠江・東三河へと進出し、領国拡大に尽力した。さらに西三河の松平氏とも戦ったが、この時は松平長親(松平清康の祖父、徳川家康の高祖父)に敗れ撤退している。


相模平定

永正年間に入ると、以前から続いていた山内上杉・扇谷上杉両氏の抗争を巧みに利用して領域を拡大し、永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いでは氏親と共に扇谷上杉氏の援軍として参戦、山内上杉氏と古河公方・足利政氏の軍勢を打ち破っている。永正3年(1506年)には小田原付近で検地を実施。新基準による貫高の採用が確認され、新しい領国支配体制の基礎が固められている。


しかし伊豆討入り以来協力関係にあった扇谷上杉氏が、立河原の戦いに勝利したにも拘らずその後、顕定の弟で越後守護家を継いでいた上杉房能が越後から援軍を引き連れ加勢すると形成逆転し山内上杉氏に屈服。これにより両上杉氏と対立する形となった早雲は、以前から山内上杉氏と対立関係にあった上野の長尾景春や、景春の従弟の息子に当たる越後の長尾為景と連携し背後を脅かす事で、両上杉氏を牽制した。その後、房能と顕定は為景に討たれている。


永正6年(1509年)には両上杉氏が北関東・越後へ遠征した隙を突き、当時扇谷上杉氏が本拠としていた江戸城にまで迫るも、両上杉氏や相模の有力豪族である三浦義同(道寸)の反転攻勢により、翌永正7年(1510年)には逆に小田原にまで迫られるなど手痛い敗北を喫する事となる。


一時窮地に追い込まれた早雲であったが、同時期に古河公方家で政氏・高基・義明が三つ巴の争いを繰り広げ、山内上杉家では憲房と顕実による家督争いが勃発したことで両上杉氏が動けなくなった間に体勢を立て直し、永正9(1512)年8月には義同の本拠である岡崎城を陥れ、住吉城へと敗走せしめる。これにより初めて鎌倉の土を踏んだ早雲は、10月には当地に玉縄城を築き相模攻略の拠点とした。翌年以降も早雲の攻勢は続き、義同の反撃や扇谷上杉氏の援軍を退けてさらに新井城まで追い詰める。3年にも亘る包囲戦の末、永正13(1516)年7月に新井城は落城。義同は息子の義意や家臣ら共々討ち滅ぼされ、ここに早雲は相模全域を平定したのである。


相模平定後も上総の真里谷武田氏を支援し、房総半島での戦いに明け暮れた早雲であったが、永正15(1518)年に家督を嫡男・氏綱に譲り、翌永正16年8月15日(1519年9月8日)に死去。享年は88もしくは64と伝えられているが、いずれにせよ「人間五十年」と謳われた当時としては長命の部類に入るのは間違いない。

早雲の死後、北条氏(後北条氏)を称した子孫らは周辺諸国へと勢力を拡大、五代に亘って関東に一大版図を築き上げる事となる。


信長の野望

初出は『嵐世記』パワーアップキットで、用意されたミッションをクリアすることで獲得できる、賞品武将としての登場。

『蒼天録』のパワーアップキットで、正式な武将となった。シリーズ10作目で満を持しての登場という事もあり、その能力値もシリーズ中トップクラスである。また年齢は永享4年生誕説を採用し、1495年時点で64歳として設定されている。『蒼天録』の他『革新』『天道』にも登場。

『嵐世記』では伊勢国出身の設定だが、『蒼天録』で備中国出身に修正された。


関連タグ

戦国武将 関東 伊豆 東海道

下克上 北条氏

北条氏綱 北条氏康 北条氏政 北条氏直


井原鉄道:自社運営路線である井原線内に「早雲の里荏原駅」を設置している。

野心姫・北条早雲(戦国コレクション)

ゆうきまさみ:早雲が主人公の漫画『新九郎、奔る!』を2018年より執筆。

北大路欣也:足利義視や茶々丸らとの対立を描いたドラマ『若き日の北条早雲』(テレビ朝日、1980年)で早雲こと新九郎を演じた。

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