概要
奇書というワードは、少なくとも日本国内においては以下の意味に大別される。
1.世に稀なほど卓越した書物のこと。ことに名作小説を指す。
2.1が転じて、よほどの読書家でなければ読解が不可能なほど内容が難解かつ理解不能な書籍。
大本は、清朝前期の書店が販促用につけたキャッチフレーズであったものが、日本にこの概念が持ち込まれた後に字面が奇怪や奇妙、奇抜にも通じてしまうことから国内においてはこちらの意味に取って代わって用いられるようになった。
現在においてもこの概念の適用範囲は拡大し続けていて、中にはヴォイニッチ手稿などのようにそもそも全文暗号で綴られていて解読不可能な、ともすれば小説ですらない一品でも奇書として紹介されることもある。
こうしたことから1と2がさらに転じて、
・制作意図が不明。主題も不明。なんなら作者も成立時期も不明。
・整合性が無い。内容がとにかく滅茶苦茶。起承転結成立してない。
(成立している部分があっても中途から破綻している。)
・内容が成立はしていても、電波的であるかタブーに触れてしまっている。
・ソースが謎。物事の真相や予言について綴られていても裏付けが曖昧。
…といった書籍や文書一般が漠然とながらこれに包括されるケースもある。
中国四大奇書
1の元ネタ。四大名著とも。成立は1600年代以降か。
日本探偵小説三大奇書
2の概念が広まったすべての元凶。
煽り文のテンプレは「普通のミステリーに飽きてしまった人にお勧め」
3作に共通しているのは多くのユーザーが面白さよりも狂気推しなところ。どれも推理小説の体裁をとりながらも、文章も世界観も奇怪&精神医学や幻想思想などのあきらかに推理やミステリー関係ない要素が目白押し、作者正気か!? と思わずにいられない類のメタ構造…といった具合でフツーの読書家だと読破にはかなりの根気と知識とSAN値が必要なレベル。『ドグラ・マグラ』に至っては「読んだら発狂する」と称されるほど。
こうしたことからアンチミステリーの先駆けともいわれる。
作家竹本健治らの証言によると、竹本自身の作品である『匣の中の失楽』が小説雑誌「幻影城」において、当時の編集長島崎博が同作が1977年~1978年まで連載された際に上記3作と『石の血脈』(半村良)に匹敵する大作であると予告宣伝し、終了後に単行本化された際の「幻影城」1978年10月号にて評論家の二上洋一がこの三作をまとめて「三大奇書」と称し、『匣の中の失楽』を「第四の奇書」と言ったことに由来する、という説が有力とされている。(ソース なお諸説あり)
このようなことから、「三大奇書」という概念は『匣の中の失楽』という奇作への評価を前提としたものである趣旨が強いものの、同作を加えたうえで日本四大奇書と評されることも珍しくはない。
(少なくとも台湾では島崎の働きかけでこの名称・括りで紹介されている)
これら4作が後世に与えた影響は大きく、舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』や古野まほろの『天帝のはしたなき果実』、清涼院流水の『コズミック』などのように第五の奇書を標榜する書籍が多数みられる。
…妙にメフィスト賞系率が高いのは気のせいであろう。
その他の奇書
前述のように「奇書」とは日本と中国独自のワードだが、近年ではYouTube等の動画サイトなどでは有志によって海外の異端文学や謎本、怪文書が紹介されている。
奇書とされる文書ほか
他多数
中でも
の3つを指して「生物学三大奇書」と呼ばれることがある。
また、国内においても三大奇書等の探偵小説以外にも『家畜人ヤプー』(沼正三)や『零號琴』(飛浩隆)などのように内容が徹底的にカオスやアングラ、アナーキー要素で溢れかえった作品にもこの評価が付くことがある。
特にヤプーは「戦後最大の奇書」「20世紀最大の奇書」と評価されている。参考
こうした傾向的にガロ系や一部WEB小説とも親和性が高いとも思われるが、今後どのように展開していくかは未知数である。ただし、サブカル系評論家の宮本直毅は『異世界はスマートフォンとともに。』を「『非現実の王国で』的な酩酊感(要約)」と称した。参考
余談ながら、「文芸界のシュルレアリスム」とも詳される村上春樹作品は芸術といわれることはあってもこれにノミネートされることはほとんど無い。 なぜだろうね?