概要
佐々淳行は昭和5年、当時の東京府東京市麻布区に生誕。父、佐々弘雄(朝日新聞社論説主幹。のち、参院議員)の次男として生まれる。
実姉は紀平悌子。婦人運動家・市川房枝に師事した参院議員である。
佐々"さっさ"という苗字からお分かりの方も多いやもしれないが、戦国武将佐々成政の系譜をひいている。
また、水戸黄門の助さんこと佐々木助三郎のモデルとなった佐々宗淳の系譜でもある。
在学中は学生研究会土曜会の一員として、大学正常化(いわゆる学生運動の切り崩し)に関わったほか、級友らとおもに様々な政治家、官僚等々に指導を仰ぎ、勉学を究めていった。
(級友共々、吉田茂元総理の邸宅に赴いたこともあるという。)
卒業後、昭和29年、ときの国家地方警察本部(現・警察庁)に2番目の成績で入庁。爾来、有資格者(いわゆるキャリア官僚)として警察人生を歩む。
警視庁防犯部(現・生活安全部)保安課風紀係長、
警視庁警備部警備第一課長(警視正)、
このほか、外務省への出向(在香港日本国総領事館領事)や防衛庁への出向(防衛庁官房長や、防衛施設庁長官など。)を経験。
一旦、防衛庁を退官した後、中曽根康弘内閣において新設された内閣官房内閣安全保障室長(初代)に就任。
竹下登(DAIGOのお爺ちゃま)内閣においても再任されたが、昭和天皇 大喪の礼を最後に退官。
退官後は天下りや、与野党問わずの政治家への転身を断り、個人事務所を開設。
作家として、また危機管理・政治評論家として本の執筆や新聞等への寄稿、テレビ出演や講演会など晩年まで精力的に活動を続けていた。
携わった事件等々
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東大安田講堂事件
昭和43年(1968年)6月末、香港領事より帰任し警視庁公安部外事第一課長に着任した。着任早々、数々のデモ・騒擾事件の指揮を執ることとなった。当時は、学生運動の全盛期。折しも、東京大学にて学生によって安田講堂にバリケードが構築されるなど風雲丘を告げていた。
このため、ときの秦野章 警視総監のゴリ押しによって進められたドンパチ要員結集人事により、11月には警備部警備第一課長に横滑りした。
この異例ともいえる人事。前任者は3期後輩だったという。
警備第一課長着任後は、機動隊の装備資器材や、警備戦術の大幅な改革に腐心。そして、昭和44年1月安田講堂事件においては総合警備本部幕僚長として現場指揮を執ることとなった。
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連合赤軍あさま山荘事件
昭和46年(1971年)には、警備局長の意向により警察庁警務局監察官兼警備局付という変則人事の発令を受ける。これは、当時頻発していた極左暴力集団によるさまざまな事件の陣頭指揮や、情報収集を行なうためになされたものであった。
昭和47年(1972年)2月、長野県軽井沢において連合赤軍メンバー5名が、管理人の妻を人質に取りあさま山荘事件を起こす。
後藤田正晴 警察庁長官の特命により、警察庁および警視庁の面々と共に長野県に派遣されることとなった。
クレーン車に括り付けた鉄球により、山荘の階段を破壊するというアイディアは他ならぬ、佐々自らの提案であった。
だが、機動隊員のミスにより、作業は中断。空いた大穴のため、却って犯人側からの狙撃が激化することとなってしまった。
あさま山荘事件においては、身代わり志願の民間人男性1名が死亡し、警視庁の機動隊員2名(第二機動隊長・内田尚孝警視長。特科車両隊本部付中隊長・高見繁光警視正)が殉職。
また、未だに多くの警察官が後遺傷に苦しんでいる。
(のちのTV番組にて佐々は「これは私の責任によって警備がなされ、私の責任によって部下が殉職しました。(中略)なんとか死なせずにやる方法がなかったのか……」と号泣しながら悔やんでいる。)
ひめゆりの塔事件
あさま山荘事件ののち、昭和47年7月には警察庁警備局外事課長(警視長)に着任。数々の事件に対処すべく変則人事を歩んだため、警視長への昇進は同期の中でも最速ではなかった。
昭和49年(1974年)には警備局外事課長に着任。以後、三菱重工爆破事件やクアラルンプール事件など、日本赤軍関連の事件の指揮を執ることとなった。
昭和50年(1975年)、沖縄海洋博開会式参加のため、沖縄県へご行啓される皇太子同妃両殿下(明仁上皇陛下、美智子上皇后陛下)の警衛・警備の指揮を執る。
だが、終戦後20年、特に米国からの返還後間もない沖縄において皇族方に対する感情というのは、今と比べものにならないほど厳しいものであった。
行啓前より、皇太子沖縄訪問反対や、反皇室闘争を繰り広げる過激派によるデモが頻発。
糸満市にある白銀病院においては、過激派2名が両殿下めがけ、スパナや火炎瓶を投擲する事件も起こった。
(このとき、医師らが負傷しながらも過激派と抵抗し、幸いにして御料車への直撃こそ回避された。)
しかし、ついにひめゆりの塔において、過激派による犯行を許してしまう。過激派は女学生らの御霊が眠る洞穴(ひめゆりの壕)内に数日前から潜み(この時、食糧などを洞穴内で食い散らかしている。)、慰霊に訪れた両殿下ならびに、案内するひめゆり会・会長めがけ火炎瓶を投擲。
皇宮警察側衛隊の皇宮護衛官が飛びかかり、ひめゆりの壕内に転落し、名誉の負傷をしながらも過激派2名は取り押さえられることとなった。
幸い、両殿下はもとより、ひめゆり会の会長氏や、報道関係者らに怪我はなかった。
警備前、佐々らは機動隊員の増強や、ひめゆりの壕内の検索を主張したが「県民感情を逆撫ですることになる」として沖縄県関係者らによって却下された経緯がある。
(のち、沖縄県知事自ら、謝罪に訪れたという。)
この後、佐々は警備責任を取り辞表を提出するも受理されず、警備課長から三重県警察本部長へと転任し、伊勢神宮に御参拝される天皇皇后両陛下(先帝陛下 香淳皇后)や、国体開会式に参加される皇太子同妃両殿下の警衛・警備に携わることになる。
別名
縦社会を横に生きた男
事件を呼ぶ男
危機管理の第一人者
主な著書
『東大落城───安田講堂攻防戦七十二時間───』
日テレ系『日本史サスペンス劇場』特別編『東大落城』原作。
『連合赤軍「あさま山荘」事件』
東映・アスミックエース『突入せよ!「あさま山荘」事件』原作。
『目黒警察署物語───佐々警部補パトロール日誌───』
『焼け跡の青春・佐々淳行───ぼくの昭和20年代史───』
(いずれも文藝春秋刊。)