熊野
くまの
概要
近畿地方の和歌山県と三重県にまたがる[紀伊半島]南部の地域を指し、
奈良県南部も含む場合がある。
近世以前の南紀にあった牟婁郡と範囲が重なる。
熊野の名は奥まったという意味の「隈(くま)」から由来するとされ、死霊が籠もる場所・黄泉の地と言われる。
上古には熊野国造が治め、大化改新後に設置された牟婁郡に併合された。
熊野信仰
熊野は神道・修験道・仏教において聖地とされる。日本神話では死んだイザナミをイザナギが葬った場所とされ、神武天皇が近畿に向けて上陸し、大熊と出会った地であるとも伝わる。
この熊野には、熊野権現を祀る熊野神社の総本社である熊野三山(本宮・新宮・那智)がある。熊野三山は奈良時代から既に山林修行の地として知られていた(小山靖憲『熊野古道』)。小山によれば十二世紀前半には神仏習合の思想から、本宮の家津御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の結神は千手観音が仮の姿として現れたものとされた。ここから本宮は阿弥陀如来の極楽浄土、新宮は薬師如来の東方瑠璃浄土、那智は観世音菩薩の補陀落浄土であるともされた。すなわち熊野三山とは全体が浄土とみなされたのである(小山靖憲「熊野詣の中世史」『熊野古道』)。
「熊野に参るには 紀路(紀伊路)と伊勢路の どれ近し
広大慈悲の 道なれば 紀路も伊勢路も 遠からず(『梁塵秘抄』)
このように『梁塵秘抄』に歌われた熊野は、院政期~鎌倉時代には、治天の君が頻繁に参詣する聖地となっていた。白河法皇は永久4年(1116年)に二度目の熊野詣を行ってから、ほぼ1年半に一度のペースで熊野詣を行っている。次の鳥羽上皇は1年5ヶ月に一回、計21回もの熊野詣を行っている。この頻繁な熊野詣は次の後白河法皇、後鳥羽上皇と院政期を通じて継続される。承久の乱によって院政の熊野詣は廃れるが、その頃から地方武士の熊野詣が活発になる。また室町時代末期にかけて民衆の熊野詣が栄え、その多さから「蟻の熊野詣」と呼ばれた(小山靖憲「熊野詣の中世史」『熊野古道』)。
これほどに熊野に出向いた人々は、何を願っていたのであろうか。端的に言えば、病気平癒や官位昇進などの現世利益が主であり、来世での極楽往生がそれに次いでいた(小山靖憲「参詣の作法と組織」『熊野古道』)。小山によれば熊野への参詣は女性に広く門戸が開かれており、また平癒を願う障害者の参詣も盛んであった。近隣住民が障害者の参詣を助ければ住民自身も御利益を得られるとされており、参詣への便宜が図られていたとのこと。
南紀一帯には「熊野古道」と呼ばれる熊野詣のための巡礼の道があり、熊野三山や和歌山の高野山、三重の伊勢神宮、奈良の吉野などとつながっている。古道の参詣は急な山道が続く大変な難路であったが、その山道を徒歩で往く難行苦行と水辺で繰り返した垢離を掻く儀式とは、悟りの世界に入る苦行滅罪の旅であったとのこと(小山靖憲「参詣の作法と組織」『熊野古道』)。小山によれば参詣の回数も重要であり、時代が下るほどに参詣の回数を競う傾向がみられるようになったという。熊野三山には別当という行政長官が配置され、一大勢力として当地を治め、院政期・平安末期の源平合戦でも勝敗を左右する重要な勢力となった。