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スターリンの編集履歴

2023-09-03 13:48:10 バージョン

スターリン

すたーりん

ソビエト連邦の政治家。第2代ソビエト連邦最高指導者

概要

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、グルジア語:იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、本名:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、1878年12月18日 - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。第2代ソビエト連邦最高指導者。スターリンは労働者階級と社会主義の擁護者として尊敬されていた一方で、この政権は全体主義的であると広く言われており、大規模な弾圧・民族の浄化・大規模な国外追放・数十万人の処刑・飢餓を指揮したとして非難されている。


経歴

1878年12月18日にロシア帝国グルジアのゴリにて、貧しいグルジア人の家庭に誕生した。1901年11月にマルクス主義のロシア社会民主労働党に入党し、党の新聞であるプラウダを編集して資金を集めた。レーニンのボリシェヴィキ派に対し、強盗・誘拐・みかじめ料を使った犯罪を実行して数回もシベリアに流刑され、1917年11月に民族問題人民委員に加入した。


1922年12月にソ連が成立する前にロシア内戦に従軍し、1924年1月にレーニンが死去した後は最高指導者となった。1928年10月に5か年計画を導入した結果、ソ連は農業の集団化と急速な工業化を経験し、中央集権的な経済を創出した。1936年8月に労働者階級の敵を根絶するべく大粛清を実施し、1938年11月までに68万1692人が射殺され、合計で137万2382人が政治的理由で逮捕された。スターリンは共産主義インターナショナルを通じ、外国でマルクス・レーニン主義を推進した。


1939年8月にナチス・ドイツと不可侵条約を締結し、同年9月にソ連はポーランドに侵攻した。1941年6月にドイツはソ連に侵攻して条約を破棄し、その後はビッグ3の1国として第2次世界大戦の連合国に加わった。1940年6月にベッサラビアと北ブコビナ・同年8月にバルト3国を併合し、その後は中央・東ヨーロッパ全域と東アジアの一部にソ連と連携した政府を樹立した。1945年4月にベルリンを占領し、同年5月にドイツは無条件降伏した。同年9月にこの戦争が終結した後、アメリカとソ連は世界的な超大国として台頭し、1947年3月から東西冷戦という緊張の時代に入った。


1949年8月に世界初の核実験を実施し、ソ連はヨーロッパ初の核保有国となった。1953年3月にモスクワにて74歳で死去し、同年9月にニキータ・フルシチョフが後継となった。1991年12月にソ連が崩壊して以来スターリンは、世界の超大国としてのソ連の地位を確固たるものとした最高指導者として、ロシアとグルジアで人気を保持してきた。


性格

自分が少数民族のグルジア人であるにも係わらず、グルジア人が現地のカフカースでは支配的な多数派である事を意識していた。そこでウクライナ・ベラルーシなどをソ連の構成国とするレーニン案に対し、全ての非ロシア人少数民族地域を自治区としてロシアに組み込む自治化案を提出した。


一方で独ソ戦中にはロシア人を第一の民族と位置付け、ロシア民族の国粋主義をソ連の防衛に活用した。戦後にはイスラエルの親西側傾向を受け、医師団事件などユダヤ人陰謀論にも思える側面を見せた時期もあるが、大テロル時代も生き抜いた旧知の副官のカガノヴィチはユダヤ人である。人間不信で疑い深く臆病・権力欲と顕示欲が強い性格で、このような性格は独裁者になると一層増幅され、家族・肉親ですら信用せず、被害妄想と言えるほど周りの他人を疑って接していた。


母と長女だけは別であったが、長女の方は恋愛絡みで酷い干渉を受けており、特に最初の恋人がスパイ容疑でシベリア送りとなった件を根に持っていたらしい。スターリンの死後10年経ってからアメリカに亡命し、出版した回顧録で父親を「孤独感と絶望感から来る弾圧マニア」と叩いていた。


逸話

ホーチミンに対する仕打ち

1950年1月にベトナムの共産主義革命を指揮したホー・チ・ミンが極秘にソ連を訪問した事があった。スターリンはホー・チ・ミンをスパイと疑っていたが、ホー・チ・ミンはスターリンに初めて会ったためか感激し、サインを求めた。スターリンは渋々ホー・チ・ミンが差し出した雑誌にサインしたが、すぐこれを後悔して秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させてしまった。


その後スターリンはサインが無い事に気付いて慌てるホー・チ・ミンの様子を聞いて喜んだという。後に「あいつはまだ探しているのか?見つける事は出来んぞ。」と嘲笑のタネにしたとも言われる。後年にフルシチョフは自伝記でスターリンのこの行為を指して、「純粋で共産主義的な人物に酷い接し方をした。」と批判している。


死因

上記のように直接的な死因は脳卒中だが、間接的には他人を信用しなかった事による発見・治療の遅れが原因ともされる。なお一説にはスターリンから「指示があるまで絶対起こすな。」と厳命された警備責任者がいつまでも指示が来ないことに不審を感じるも、スターリンの怒りを買う事を恐れて何もせず、夜遅くになって部屋に入った家政婦が倒れているスターリンを発見したとされる。


治療の遅れに関しては長女の回顧録によると、「倒れた際に側近達が居たにも拘らず、やる事なす事に我慢の限界だったのか放置した。」とされており、未だに諸説が入り乱れている。ある側近が「流石に毒には勝てなかった。」と零していたとの記録が存在しており、そのせいで毒殺説が現在まで存在し続けている。


生活

趣味は温室でのレモン栽培・映画(特にアメリカ製)鑑賞。レモンを来客に食べさせては嬉々として自慢していたが、映画鑑賞に関しては周りにまともなロシア語の翻訳ができる人がいなかった為、映画産業の責任者が必死に暗記したり適当なアドリブで凌いでいたとか。しかしスターリンはむしろ馬鹿げた通訳騒ぎを楽しんでおり、決して専門の通訳を入れようとしなかったらしい。なおスターリンは大衆的な娯楽映画を好んでおり、アメリカ映画を多く取り寄せていたという。


大の読書家で蔵書は約2万冊に及び、それらはクレムリンの住居・別荘にきちんと分類されて置かれていた。本のジャンルも様々で、マルクス・エンゲルス・レーニンの著書などはもちろんの事、哲学書・文学書・歴史書・軍事書・果ては粛清した政敵の著書であるヒトラーの『我が闘争』などもあったという。スターリンはこれらを寸暇も惜しんで読みふけり、色鉛筆でアンダーラインを引いたり余白に書き込んだりするのを楽しんだ。訪問客には机上に置かれている新刊の包みを指差して、「私の読書ノルマは毎日500ページだ。」と語ったという。


飛行機が苦手で、列車での移動がほとんどだった。特異かつ捻じ曲がったユーモアセンスがあり、側近を結構キツイ方法でからかう・個人的なお遊び(部下を酔い潰すのが好き)と実益(忠誠度チェック)を兼ねて毎度仕事の終わりに宴会を開催しては部下に酒を沢山飲ませていた。当然側近は例外無く腎臓か肝臓のどちらかがアルコールでボロボロだったという。


家族

1906年7月にエカテリーナ・スヴァニゼと結婚し、1907年3月にヤーコフが誕生したが、同年11月にエカテリーナが腸チフスで死去した。1919年3月(正式に結婚が登録された日)にナジェージダ・アリルイエバと結婚した。1921年3月にワシーリー・1926年2月にスヴェトラーナが誕生したが、1932年11月にナジェージダは死去した。


ヤーコフはナチスに捕虜で捕まり、大戦の後期に敗色が濃厚になったドイツ側は、スターリングラード攻防戦で捕虜になったフリードリヒ・パウルス元帥とヤーコフの交換をソ連側に提案した。しかしスターリンは、「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね。」と一蹴した。また逆にヒトラーの親族で捕虜になっていたレオ・ルドルフ・ラウバルとの交換も提案されたが、これも拒否されている。親から見放されたヤーコフはひどく落胆し、直後に収容所で死亡した。冷酷に突き放したスターリンだが、この一件以降スターリンは人知れず涙を流したという。


次男のワシーリーは学校の成績が悪く、校長先生はスターリンに「国家主席でありながら子の教育が出来ないのですか。」と批判した。すると「息子が不出来なのは私が至らないからです。どうか許してください。」と謝罪し、家族に対しては少なからず情があったようだ。


余談・その他

語録

  • とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
  • 「感謝とはに悩まされて気分を悪くするようなものだ」
  • 「諸君はドイツからのニュースを聞いたか? 何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男は凄い奴だ! 奴は政敵をどう扱えばいいかを見せてくれた」(ドイツでの「長いナイフの夜」事件で、ヒトラーがエルンスト・レーム率いる突撃隊の粛清を聞いての発言。この事件をベースに大粛清を決意したとも言われる)。
  • 赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである」(冬戦争でのロシア人捕虜の話を聞いて)
  • 「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしているんだよ」(1935年10月に死期の近づいた母のお見舞いに行き、彼女に「どんな人になったの?」と聞かれた際の発言である。ただ息子の悪名は耳に入っていたのか、母は「司祭になってもらいたかったのにねぇ」と零し、それを知った殆どの人民が大喜びしたとか。ただし直前に「どうして(子供の頃)あんなに僕を殴ったの?」「だからそんなに立派になったのよ」という会話もなされている。)
  • 「ろくでなしがくたばりやがった」(ヒトラーが自殺したという報告を受けて)
  • 日本は最後にはまた這い上がってくる」(大戦終結直後)
  • チベット攻撃?結構な事だ」(毛沢東党主席からチベット侵攻の許可を求められての返事)
  • 「北朝鮮は永久に戦い続ければいい。何故なら兵士の人命以外に北朝鮮が失うものは何も無いからだ」(朝鮮戦争について周恩来に語った一言)
  • 「私はもうお終いだ。誰も信用できない。自分さえも」(1951年にフルシチョフに語った呟き)

スターリンの発言によく帰されるが別の人の発言

  • が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」

(Смерть решает все проблемы. Нет человека, и нет проблемы)

1987年4月に出版された『アルバート街の子供たち』(著作:アナトリー・ルィバコフ)の一節だが、本家のロシアでもよく誤ってスターリン本人の発言に帰されるらしい


スターリン影武者説

我々がよく知る「恰幅がよく口髭をたくわえたあの容姿は実は影武者のもの」であったと言われている。本物のスターリンは過去に罹患した天然痘の痕が顔に残っていたとされる。しかし、写真の加工により痘痕が消されているだけで本人であるという可能性が高い。またスターリンは2度馬車に轢かれており、その影響で左腕がほとんど動かないという。左腕が動くのはほぼ偽物といっていいだろう。


本名

  • ヨシフ(正確なロシア語発音はイオシフ)・スターリン
  • ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語)
  • イオセブ・ベッサリオニス・ヅェ・ジュガシヴィリ(グルジア語)

関連タグ

次代:ゲオルギー・マレンコフ


悪魔魔王

赤い皇帝 全人類の教師悪の教師

ソ連 赤いpixiv 共産主義

ロシア おそロシア 暴君 独裁者 哀しき悪役 毒親の被害者

レーニン フルシチョフ

ヨシフ・スターリン

岡田真澄 ヒューズ(APEX)

有田芳生:「芳生」はスターリンの名前から取られている

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