ジェフ・ベック
じぇふべっく
本名:ジェフリー・アーノルド・ベック(Geoffery Arnold Beck)
日本ではエリック・クラプトン、ジミー・ペイジと共に3大ギタリストと称されている。
利己的で我侭、非情な性格と言われ、どこか近寄りがたい存在で「孤高のギタリスト」と呼ばれた。
ブルースやロックンロールを元にしつつも、独創的で自由奔放なプレイ。ギタリストの間で尊敬を集めつつもフォロワーは皆無だが、ジミ・ヘンドリックスはベックのフィードバック奏法や大胆なアーミングを自身のプレイに取り入れた。
一方歌うのは苦手だったのか、ボーカル曲はベック・ボガート&アピスでの「黒猫の叫び - Black Cat Moan」などわずかである。
1944年6月24日、サリー州ウォリントン(イングランド)で誕生。
1960年、アート・スクール(ウィンブルドン・カレッジ・オブ・アート)に入学。ナイト・シフトを結成。ジーン・ヴィンセントやエディ・コクランのカバーを主なレパートリーとしていた。
1962年、ジミー・ペイジと知り合う。
アート・スクールを中退。トライデンツを結成する。
1963年、セッション・ギタリストとしてオール・スターズに参加し、初のレコーディングを体験した。この時、ニッキー・ホプキンスと知り合う。
1965年、ジミー・ペイジからの紹介で、エリック・クラプトンの後任としてヤードバーズに加入。アルバム『Roger The Engineer』でのベックのフィードバック奏法が話題となる。
1966年、メンバーとの確執でヤードバーズを脱退。
1967年、自らヴォーカルも務めたソロ・シングル「ハイ・ホー・シルバー・ライニング」がヒット。この儲けを元手にソロ・アルバムの制作を開始。ディスコやクラブに入り浸ってメンバーを探し、「ダーリン・オヴ・ディスコティック」と渾名される。
ロッド・スチュワート(ヴォーカル)、ロン・ウッド(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、エインズレイ・ダンパー(ドラムス)と、第1期ジェフ・ベック・グループを結成。
1968年、ジェフ・ベック・グループからエインズレイ・ダンパーが脱退し、ミック・ウォーラーが加入。アルバム「トゥルース」を発表。
1969年、ロン・ウッドとミック・ウォーラーを解雇。ダグラス・ブレイクとトニー・ニューマンが加入してアルバム「ベック・オラ」のレコーディングが開始されるが、ダグラス・ブレイクが下手だったのでロン・ウッドが呼び戻される。
「ベック・オラ」発表後、ニッキー・ホプキンスはクローン病の悪化で脱退。
ウッドストック・フェスティバル出演を前日にキャンセル。
ロッド・スチュワートとロン・ウッドはスモール・フェイセス加入のため脱退。
ベックはヴァニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスと新バンドを結成する予定だったが、交通事故を起こし頭蓋骨骨折・鼻部裂傷・全身打撲の重傷。しばらく活動停止となる。
1970年、ボブ・テンチ(ヴォーカル)、クライヴ・チェイマン(ベース)、マックス・ミドルトン(キーボード)、コージー・パウエル(ドラムス)と、第2期ジェフ・ベック・グループを結成。
1971年、アルバム「ラフ・アンド・レディ」を発表。
1972年、アルバム「ジェフ・ベック・グループ」を発表。
コージー・パウエルの脱退後、ボブ・テンチ、クライヴ・チェイマンを解雇してキム・ミルフォード、ティム・ボガート、カーマイン・アピスを加入させる。
キム・ミルフォード(ヴォーカル)、ティム・ボガート(ベース)、マックス・ミドルトン(キーボード)、カーマイン・アピス(ドラムス)のメンバーでアメリカ・ツアーに行くが、キム・ミルフォードが下手だったのでボブ・テンチが呼び戻される。
ツアー終了後、ボブ・テンチ、マックス・ミドルトンが脱退し、第2期ジェフ・ベック・グループは消滅。
以降、ベック・ボガート&アピスとして活動。
1973年、アルバム「ベック・ボガート&アピス」を発表。
1974年、ベック・ボガート&アピスは2ndアルバムのレコーディングに入ったが、ベックとボガートの対立が酷くなり完成せず、バンドは消滅する。
1975年、ソロでアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」を発表。インストゥルメンタルとしては異例のヒットを記録する。
以降はソロで活動している。
2023年、78歳で死去した。