生没年 1855年~1926年
生涯
父のジョナサンも銃技師であり、ジョンも18歳から父の仕事を手伝い、24歳でレバーアクション式単発ライフルを開発し特許を取得した。
同年に結婚したが、ほぼ同時期にジョナサンが亡くなった。兄弟で以後の生計を銃の修理と前述のライフル販売でたてることを決めたが、この銃がウィンチェスター社のセールスマンの目に留まったことで、社長のトーマス・G・ベネットが自らジョンと会い、特許と在庫を8,000ドルで買い取った(後のウィンチェスターM1885)。
その金で1883年に銃砲店「ブローニング兄弟商会」を設立し、その後も銃の開発を続けウィンチェスター社にライフルやショットガンを売り込んだ。
一方で機関銃の独自開発に成功したことで、軍用銃器メーカーとして有名なコルト社へ売り込みを行ったことで、1895年に「コルト・ブローニングM1895重機関銃」として結実する。また機関銃の技術を応用したオートマチックピストルの開発にも成功し、1897年に特許を取得しコルト社へ売却した。この後コルト社はM1900を皮切りに自動拳銃の開発に乗り出すが、ブローニングの協力なしでは無しえない事であった。
1901年、新型ショットガンを開発したが、契約上の問題から関係が悪化していたウィンチェスター社が買取を拒否したことから決別。ベルギーのFN社(現・FNH社)が買取に同意したこと(ブローニング・オート5、後にアメリカのレミントン社でレミントンM11として販売)で、以後はコルトとFNとの協力関係を保持した。
1926年11月26日、FN社の工場見学の為ベルギーへ旅行に出かけていたが、出先で斃れ急死した。
余談
現代の主流となるポンプアクション式、オートマチック式、上下二連式ショットガンのモデルを開発し、それらが普及するきっかけを作ったのは全部ジョン・ブローニングであると言われている。
そのモデルとは1897年にポンプアクション式のウィンチェスターM1897、1905年にオートマチック式のブローニング・オート5、そして1926年に亡くなる直前に上下二連式散弾銃の開発に着手し、それが1931年で息子のヴァル・ブローニングによってブローニング・スーパーポーズドとして生産された。