概要
仏教における教義や心の捉え方を、現代における人々の生活や心の平安に役立てるために、それらを活用した学問や心理療法のこと。
古来から存在してきた教えながら、それは現代にも通じるものばかりであり、近年は多くの研究者にも注目されてきている。
詳細
現在では、西洋におけるオーストリアの学者であるジークムント・フロイトが提唱した精神分析や、アメリカで発展した神経科学の考え方を取り入れた心理学など、ヨーロッパ・アメリカにおける『西洋心理学』が主流である。
しかし、東洋を発祥とする仏教は、それとは違った独自の観点から発展を遂げた、『東洋心理学』と呼ぶことが出来るほど、精緻の理論化されたものであり、現在でも世界中の様々な分野において、仏教が説き開いた心理学的な知見は、大きな影響を与えている。
日本の精神科医で評論家でもあり、相愛大学客員教授でもある名越康文氏は、自身の著書でも仏教を非常に優れた心理学として、より良い参考として取り上げており、2014年11月に出版した著書『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(PHP新書)では、自身と仏教の出会いの経緯なども兼ねて、本格的に仏教について語っている。
参考思想の例
無常という真理
仏教用語の1つで、仏教の根本的な思想であり、この世の真理の1つとされる『無常(諸行無常)』は、この世のありとあらゆる存在・物事は全て、姿も本質も常に変わり続けていると説かれている。
これは別の言い方をすれば、この世界に起きることは、全てが「新しいこと」であり(常に変化してるから)、「全く同じもの(こと)」や「永遠に変わらないもの(こと)」はこの世には無い(起こらない)ということであり、現代の物理学にも通ずる考え方である。
仏教では、この『無常』の思想から、どんな感情もどんな人間関係も、「変わり続ける流れの中の一局面」に過ぎないものであり、「“今”がどれだけ不幸であっても絶望する必要など無い」という捉え方がされている。
行をする意味
『行(修行)』の思想は、人として世の中をどう生きていけば良いのかを、「こうすれば良い」という具体的な方法論で示しており、他の宗教には見られない独特の考え方である。
仏教において、「いつかは必ず死ぬ」という宿命を抱えている人間が、「人生をどのように生きていくべきなのか」ということの答えを見出すためには、上述した『無常』のような真理を理解できるようになることが重要であり、そのために行うのが『行』とされる。
しかし、実際に現実をありのままに捉えて生きることができている人は、現代においては特に殆どいない。
そもそも、なぜ人は現実をありのままに捉えて生きることができないのかというと、仏教における答えは「人の心が絶え間なく乱れ続けているから」というものである。
例えると、大きな桶に水を張り、その水面に満月が映っているのを想像してみてほしい。
もしその水面にさざ波ひとつ立っていなければ、空に浮かぶ月はそのままの姿で見える。
しかし、桶の水に少しでもさざ波が立てば、水に映った月は歪んで見えてしまうだろう。
この「桶に張った水」とは「心」の喩えであり、人の心はさざ波の立った桶の水のように絶えず乱れているために、人は殆どの場合現実をありのままに見るということができないのである。
現実をありのままに見るには、さざ波の立った水面である心をスッと静かに落ち着ける必要があり、『行』こそがその方法論に当たるのである。
行の例
その修行とは、決して難しいものではなく、一般人でも普段の生活の中で実践出来るものであり、代表的なものとしては「姿勢を整えて呼吸をする」という行がある。
自分なりに姿勢を整えたら、静かに目を瞑り、息を「フーッ」と10秒かけて吐ききる。・・・これでおしまい。
これは行に取り組む上で基本中の基本と言えるほどの大切な要素であり、姿勢がどれだけ安定しているかは、心がどれだけ安定しているかとシンクロしている。
これだけではなく、普段から何気なく行っていることも修行になり得ることであり、掃除などもその1つで、「次にどこを掃除するか」などは考えないようにして、今現在に掃除している箇所に集中し、一心不乱にひたすら掃除をする。
それだけでも行になるとされる。
それでいて、過酷なことであれ、簡単なことであれ、「毎日欠かさず続ける」ことが、修行で最も大切なことであるとされ、『三日坊主』ということわざは、そうした修行が続かないことの例えから生まれたものである。
心の捉え方
仏教において『心』とは、「瞬間ごとに変化し続ける運動」と捉えられており、これは西洋心理学的な見方からするとかなり画期的に感じる見方である。
試しに椅子や床に座って背筋を伸ばし、目を瞑って動かずに3分間自分の心を観察してみて欲しい。
おそらく多くの人は、たった3分間の間に頭の中に多くの情報や妄想が巡り、例えば友人のことを考えていたら、次の瞬間に今日のご飯のことを考えたりしたハズである。
西洋の心理学では心を「自我」「無意識」というように静的な形・構造として説明しようとするが、仏教において心は固定的な実体が無く、一瞬ごとに変化し続けるものとされており、幸せの絶頂にいた人間が次の瞬間に憎しみのどん底に落ち込んでしまったり、或いはその逆もある。
例えば精神分析などの精神科医療の心理学では、ある安定した心の状態を「正常」と捉えて、そこから外れた状態を「異常」「病」と診断している。
しかし仏教においては、「正常」「異常」という捉え方はせず、前述したように心とは瞬間ごとに変化し続けるものであるため、病んだ人も健やかな人も、心が変化し続ける点では変わらないのである(逆に言うと、仏教の見方からすれば、現世に生きる殆どの人は心が病んでいる、ということになる)。
現代人の多くは「自分の心・感情」と「自分自身」を同一的に考えているが、前述した心の観察を行っていれば、その際に「自分の心を観察する自分」という「心とは別の自分」があったハズであり、仏教においてはそうした、心とは別の自分こそが本来の「自分自身」であると捉えられている。
現代の世の中には、「感情的な方が人間らしい」という価値観がはんば当たり前のようにまかり通っていて、憎悪や嫉妬、軽蔑や強欲といった負の感情に高まっている時の方が「自分らしい」「人間らしい」と考える風潮があり、インターネット上の議論などを見ても、冷静で謙虚な人の意見を埋没させて、激昂した感情的な人の意見に場を圧倒させることが増えている。
しかし、これは「自分らしい」わけでも「人間らしい」わけでもなく、言うなれば「感情に甘い」だけなのである。
『心』とは『自分』にとって、いわば「付き合いにくい隣人」のようなものであり、必要以上・過剰に抱いてしまわないように制御しなければならないもので、その方法が『行』に当たる。
「心は自分ではない」というのが、仏教における心の知見で基本的な考え方であり、大乗仏教ではそうした心とは切り離された自分のことを『仏性』と呼び、心・感情とは自分の一部に過ぎず、しっかりと制御することで仏性は露わとなるとしている。
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医者と坊主は大事にせよ:このことわざは、仏教の教えが心の病を治す術であることを示している。