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1830年~1863年8月8日(文久3年6月24日)

本名は吉村 豊次郎。


生涯編集

越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市仏生寺)生まれの百姓の子とされる。いつ頃かは不明だが江戸に出て、同郷の斎藤弥九郎が創立する神道無念流の剣術道場・練兵館で風呂焚き坊主として仕事に就くが、ある日仕事の合い間に道場を覗き見してた時、隠居先生と呼ばれた岡田利貞に見いだされ後に指導を受けることとなる。

その腕前は初心者ながら剣を持たせたら、塾内の練達者を打ち負かすほどだったという。そして、僅か2年程で免許皆伝を取得(この時弥助16歳)。これらのことからも弥助の強さはかなりのものと推測されている。

ある時、弥助は塾頭を目指していたが文字も読めない無学者で師範の弥九郎から学問を学ぶことを勧められたがそれを拒み口論となり道場を出奔、各地を放浪し用心棒などしながら(この時博打などにはまり借金を作ってた)たまに練兵館に顔を出す生活を送る。ある日練兵館に幕末の剣豪として知られる長州藩士の宇野金太郎が道場破りとして現れ塾の重鎮の斎藤歓之助(大村藩の剣術指南役)を打ち負かした。これに対し、面子潰れを恐れた錬兵館の切り札として弥助が出向き、宇野金太郎を叩きのめした。こうして弥助は練兵館の看板を守ったのである。


ある時、弥助は長州の勇士隊に所属して攘夷倒幕活動のため商家から金を借りていた(国のために使うと言いながら酒や博打に使ってた)。その頃から新撰組の初代局長芹沢鴨と出会い交流を持ち彼から新撰組に勧誘され鞍替えしようとしたところ、その強さを恐れた錬兵館の仲間に酔わされた後に殺害された。享年33。


こうして彼は歴史に名も残せぬままその生涯を閉じた。


人物・エピソード編集

天才的な剣の腕を持ってるが無地位でその生涯を閉じたため仏生寺弥助は知名度も低く資料もほとんどなく非常にマイナーな人物で彼が主役になってる小説や時代劇はほとんどない。しかし。練兵館の斎藤篤信斎が桂小五郎に充てた書面の内容や、高杉晋作の回想エピソード等でその姿が伝えられ彼の剣腕がどれほどすごかったのか記されている。また練兵館最後の塾頭・原保太郎は、「弥助こそ当時の日本一」と語っている。


  • 練兵館における弥助の強さは一目置かれており斎藤道場の閻魔大王(閻魔鬼神とも)の異名で恐れられたとされる。
  • 左上段からの面打ちを得意とした。あまりの速さに、先に宣言した後行われるそれを誰も防ぐ事が出来なかったとされる。その他にも体術は上段前蹴りを得意としていた。
  • 後の奇兵隊創設者で柳生新陰流の使い手高杉晋作は弥助と勝負して敗北した挙句泣かされたと伝えられてる。
  • 宇野金太郎桂小五郎を破ったとされる凄腕の剣豪だが弥助は宇野に十本勝負で挑み「今から俺は左面打ちを出す」と先に宣言を放ったにもかかわらず宇野に一度も竹刀を振らせず十本すべて勝利している。

関連タグ編集

幕末 剣豪

神道無念流 高杉晋作 桂小五郎

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