事故概要
発生日時 | 1987年11月28日 |
---|---|
発生場所 | モーリシャスの北東約250km沖合のインド洋上 (推定) |
機材 | ボーイング747-200B |
乗員 | 19名 |
乗客 | 140名 |
犠牲者 | 159名(全滅) |
※事故機はコンビ機と呼ばれる貨客混載型で、メインデッキの40%が貨物室として使用され、この時は47,000キログラム(104,000ポンド)の貨物が積み込まれていた。
真夜中の長距離フライト
南アフリカ航空(SAA)は南アフリカ共和国のフラッグキャリアだったが、南アフリカ政府が悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)政策をとっていたことから、1950年代から1960年代にかけて相次いで独立を果たした他のアフリカ諸国は、SAAの領空通過を相次いで拒否していた。そのため、アフリカ諸国の領空を通るのが最短ルートであるヨーロッパ線はアフリカ諸国の領空を通過不可能であったことから、やむなく大西洋上に出てアフリカ大陸を迂回する遠回りのルートで運航されていた。台湾便も上記の影響で大陸ルートは飛行できず、インド洋を迂回してアフリカで唯一SAAを受け入れていたモーリシャスで給油してヨハネスブルグに向かうしかなかった。
295便は、台湾の中正国際空港を出発し、途中のインド洋上にあるモーリシャスのサー・シウサガル・ラングーラム国際空港で給油後、南アフリカのヨハネスブルグのヤン・スマッツ国際空港に向かう予定だった。使用されたボーイング747はコンビと呼ばれる貨客混載型でメインデッキの後部が貨物室となっていた。台北を出発後、9時間30分は通常通りに飛行していたが、現地時間午前3時45分ごろ、モーリシャスの航空管制官に対し「煙が充満し緊急着陸を要する事態」と通信があった。この時、後部の貨物室で火災が発生しており、機体は14000フィートまで緊急降下し、交代要員を含めたクルー達を総動員して火災の対処にあたっていた。無線通信の中では機長が時折クルーに対して「穴を塞げ!」などと指示をしていたり、排煙のため高度を下げてドアを開けるなどの対処をしていることを管制官に報告しているなど、とにかくできることを目一杯やっている状況だった。だが火災の規模と広がりようはもはや対処不可能なレベルにまで達しており、0時5分 UTC頃に火災が機体の電気系統と操縦系統を焼き切った結果、295便は通信、制御ともに不可能となった。そして0時7分 UTC頃、295便は機体が空中分解、モーリシャスの北東約250km沖合のインド洋上に高速で墜落、水深約4000-5000mの海底に突入したと推測されている。通信が途絶えてから36分後、モーリシャス管制が緊急事態を宣言して機体と生存者の捜索が始まった。
インド洋の底に沈んだジャンボ機
捜索は当事国となった南アフリカ政府と管制を担当したモーリシャス政府に加え、インド洋の島々に駐留していたフランス海軍とアメリカ海軍も捜索に加わった。墜落から12時間後、油膜と極度の損傷を受けた8つの遺体が水中で発見されたが、事故現場からは大きく離れた地点まで漂ってきていたことが後に判明している。この時点で生存者の可能性は絶望的となり、乗員乗客159人は全員が死亡したと結論づけられた。なお乗客の中にはプロレスラーであるハル薗田夫妻、日本水産の漁船員38人を含む47人の日本人が搭乗しており、搭乗内訳では南アフリカ人に次いで2番目に多かった。その後、回収された手荷物から3つの腕時計が発見され、うち2つはまだ台湾時間に従って動作していたが、停止した時計との比較からおおよその墜落時刻を推定することができた。
墜落地点を発見しブラックボックスを回収するため、米国のサルベージ専門会社による捜索が行われ、多大な費用が投じられた。しかし捜索区域の大きさはタイタニック号のそれと同程度であり、さらに水深5000メートルに沈んだ機体を捜索するというのはそれまでのサルベージ作業をゆうに超える深水域だった。当時インド洋の深海を捜索するということは前例のないことであった為、無人潜水艇など持てる技術の全てを投じて捜索が行われた。なお、普段見ることのできない深海の様子を見れるということから海洋生物学者が新種の発見のため便乗していたらしい。
深海に沈んで消えた謎
前例のない大規模捜索は難航することが予想されたが、幸いにも残骸は捜索開始から2日以内に発見された。残骸は墜落現場周辺数キロにわたって点在しており、これは機体が空中分解したことを示唆するものであった。また残骸の状態などから、尾部から分解が始まったことが推測された。
当時の南アフリカの政治情勢から、巷ではテロ説が盛んに取り上げられていたが、爆発物の痕跡は見当たらなかった。その後1年半に渡る捜査の末、ようやくコクピットボイスレコーダー(CVR)が発見され回収に成功した。しかしフライトデータレコーダーはとうとう発見できなかった。
南アフリカ政府の事故調査責任者ファン・セイルは政治状況を考慮し、アメリカの国家運輸安全委員会(NTSB)にCVRを引き渡し、自身が立ち会うことで調査の中立性を確保した。CVRの記録開始から約28分後に火災警報が鳴り、その14秒後、電気系統のブレーカーが飛び始めていた。捜査官たちはこのとき、電気系統、昇降舵・方向舵等の操縦系統が失われたと推測している。アラームの81秒後にCVRのケーブルが焼き切れ、記録はそこでストップしていた。
後の調査で、溶融した金属塊の中から焼け焦げた未使用の消火器が回収され、乗組員は貨物室に入って消火しようとしたものの、火勢の強さにあきらめざるを得なかったと考えられている。それだけ火の周りが予想以上に早かったのである。
貨物室を復元しての調査が行われた結果、燃えたのは床から1m以上の部分であり、特に貨物室前方の壁と天井が激しく燃えていたことが判明した。火元部の貨物の大部分はポリスチレン包装のコンピューター機器であり、何らかの原因でこれが発火し、ポリスチレンが燃えてガスが発生、天井付近に蓄積。これがフラッシュオーバー現象を起こし、貨物室全体に影響を及ぼした可能性があった。フラッシュオーバー現象が発生した場合、1000℃を超える高温の環境が一気に広範囲に広がることから避難ができなくなるばかりか、消火活動においても延焼を防ぐ対応しかできなくなり、全焼は必至である。コクピットの火災警報が鳴った時点で既に手遅れであり、墜落は避けられなかったのである。
火元は特定できたものの、なぜ火災が起こったのかについては突き止めることが出来ず、結局調査は真相解明に至ることなく終了した。ただし公式報告書ではコンピューター機器の存在に注目し、コンピューターの中に含まれているリチウム電池が自然発火した可能性を指摘している。
陰謀論
当時南アフリカ共和国では、アパルトヘイト政策により各国から経済制裁を受けていた。その上でアフリカの多くの紛争地域の介入していた為、軍需品の調達に苦労している状態だった。このため、通常旅客機では運ばれない物質を積んでいたとし、当時武器禁輸の下にあった南アフリカ政府が、武器を密輸入していたのではないかと考える者もいる。出発地となった台湾で税関職員が一部の貨物の抜き打ち検査を行っており、このとき事故の原因となるような疑わしい貨物は発見されなかったが、賄賂を掴ませるなどして検査をすり抜けた可能性があるという主張もある。
他にも乗組員の会話が離陸直後に南シナ海の上で火災が始まったことを示唆していると主張するものあるなど、とにかく多くの陰謀論が語られているが、アパルトヘイト撤廃後の2002年に行われた再調査で、原因は積荷リストに記載された物品ではありえないという結論に達した。
他にも、南アフリカのフォトジャーナリストが2007年に出版した書籍にて、1998年に発生したスイス航空111便墜落事故と同じく電線の劣化により発火し、燃え広がったとする仮説を記している。
関連タグ
フィクションじゃないのかよ!騙された!←用語等はこちらに
大韓航空機爆破事件←この事故の翌日に発生している
TWA800便墜落事故 日本航空123便墜落事故←いずれも事故機が同じボーイング747、事故後に数多くの陰謀論が語られている点で共通している
スイス航空111便墜落事故←火の回りが予想以上に早く、なす術も無しに墜落した点で共通している