東雲型駆逐艦
明治31年12月29日竣工。
吹雪型駆逐艦
1928年8月1日に竣工後、同型の東雲、薄雲、白雲と共に第2艦隊第二水雷戦隊第十二駆逐隊を結成した。
日中戦争に際しては華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加。
バタビア沖海戦の際には僚艦「白雲」とともにオランダ駆逐艦エヴェルトセンを捕捉、命中弾多数を与え大破炎上させ、後に自爆に追い込んでいる。
1935年7月、横須賀に入港した叢雲の横腹にかすかなシワが走っているのが発見された。調査の結果、亀裂が入る危険な前兆と判断され、吹雪型の構造的脆弱性が露見。直後に控えていた演習作戦への参加取りやめを求める声が現場から上がったが、当時の最新鋭艦たる吹雪型を演習から外すわけにも行かず、上層部はこの報告を隠蔽し、楽天的な気持ちで演習参加を決定した。
その結果、演習中の艦隊が台風に突入、初雪の艦首切断をはじめ特型駆逐艦多数が損傷し、その他の艦艇も大きな被害を受けたあの「第四艦隊事件」が発生した。
その後改修を受けて復帰した叢雲であったが、1940年8月に薄雲が触雷し修理のため離脱、1941年12月17日に東雲が戦没し、2隻のみとなった第十二駆逐隊は1942年3月10日に解隊されてしまう。
その後叢雲は電との衝突事故で深雪を失った第十一駆逐隊(吹雪・白雪・初雪)に補充要員として移籍した。
太平洋戦争(大東亜戦争)では、南方侵攻作戦の一つであるマレー作戦、ミッドウェー海戦、南東方面の作戦などに参加。
1942年10月のサボ島沖での遭遇戦では旗艦「青葉」を庇って撃沈された「古鷹」の乗員を救助したその帰路で、ニュージョージア島沖で米軍機の攻撃を受けまず艦尾推進装置が大破し航行不能。その後の波状攻撃を受けて艦上部構造は艦橋を残してほぼ全滅し、なぶり殺しの状態にされてしまう。
だが続くダメ押しの第二次攻撃では敵が沈黙した叢雲に油断したのか、度重なる爆撃・雷撃にもかかわらず直撃弾0であり、不幸中の幸いというべきか、撃沈だけは免れたようだ。
その後、救援に来た初雪によって艦と運命を共にすると決めていた艦長と水雷長以外の全員を救助された。
残った艦長と水雷長は最後とばかりに残っていた酒と羊羹で二人と一隻だけの宴会を開き、最後の時を楽しんだという。
ところが第三水雷戦隊はそのまま艦長たちが叢雲と運命を共にするのを良しとせず、再度救助隊が向かうこととなった。最初は旗艦「川内」が向かう話になっていたが、大きな軽巡洋艦では自殺行為だとして、再び初雪が残った艦長と水雷長の説得・救助を担当。
ゴネる叢雲の艦長らを根比べで説き伏せ、救助に成功。直後に叢雲は激しく炎上し、そのまま雷撃処分により沈没した(ただし資料によるとこの時雷撃処分を行ったのが初雪なのか白雪なのか白雲、朝雲なのか諸説あり、はっきりしていない)。
ちなみに駆逐艦「夏雲」もこの叢雲乗員救助に現れたが、こちらは不運にも急降下爆撃を浴びて爆発轟沈してしまった。